2013年12月13日

第30回 『ブッダ』から『2001年宇宙の旅』へ

 高畑勲監督の新作『かぐや姫の物語』には、スーパーマンを思わせる飛行場面が出てくる。わくわくする浮遊感覚と、空中からながめる飛びさり動く地表や、すれちがう飛ぶ鳥への視線のめまいのするような気分を、私は味わうことができた。

 つまり、1978年のアメリカの『スーパーマン』の映画につけられた「あなたは、いま本当に空を飛ぶ」という宣伝文句どおりの感覚を味わえたといっていい。これは従来の、例えば市川崑監督の映画『竹取物語』(1987)にはなかった発想だろう。

 ことによったらこの場面は、「よし、今度はひとつ、スーパーマンで行こう」と思いついた高畑監督のユーモアだったかもしれませんね。私は、その気持ちに共感いたします。

 そして「かぐや姫」といえば、当然、最後に月からむかえが来てしまう。帰りたくなくても彼女は月のプリンセスとして、月へ帰らなくてはならない。

 そして、月からのむかえがやってくる。

 高畑監督が、『竹取物語』の原作を基本的には忠実にアニメ化しているのを私は好ましく思う。月の都(みやこ)からむかえに来る人びと(というか、神々と言うべきか)が、たなびく雲に乗り、たおやかに雅楽を奏でつつ、ゆうゆうと(あわてず騒がず)現われるところが楽しい。この部分の音楽はすばらしい。

 実に優雅な場面。ただここでひとつ気になったのは、むかえに来た月世界の高貴な人の姿が、そのヘアスタイルと顔つき、全身のたたずまいから、どうしてもブッダに見えてしまうことだ。

 月世界の神とはブッダだったのか? いや、月の世界とは結局、ブッダがおわします天上界ということなのだろうか?

 そして、この映画の最後に、かぐや姫が帰っていった月が大きく示されるが、そこに赤ん坊、もしくは幼児の姿が重なる。それは、地球上でタケノコから生まれたときのかぐや姫の姿のようでもある。このラストシーンで高畑監督は、かぐや姫の地球に残る想い――地球への郷愁を暗示したのかもしれない。

 そう思いつつも、この場面に、『2001年宇宙の旅』の最後に赤ん坊(胎児)の姿が大きく映っていたイメージを重ねたくなってしまうのは、たぶんSF映画好きの悪いくせなのでありましょう。



 ところで、『かぐや姫の物語』の最後にブッダの顔を見て、もちろん手塚治虫のマンガ『ブッダ』を思い出したが、その長編アニメ版『ブッダ』の第二部をすでに私は見ているが、上映時間は思ったより短かった。

 そして『竹取物語』といえば、この物語をもとにして描かれた手塚治虫の初期作品『月世界紳士』(大阪の出版社・不二書房から1948年に二色刷り110ページほどの描きおろし単行本として刊行されたもの)、私が最も好きな手塚マンガのひとつである。これは後に学童社発行の月刊誌『漫画少年』の別冊付録「新編 月世界紳士」として80ページの作品に描き直された。手塚治虫漫画全集に収録されているのは、この『漫画少年』版だが、私は1948年の描きおろし単行本の初期形に、いちばん愛着がある。子どものときに買って失くしてしまった最初の『月世界紳士』を、もう一度読みたいものだと、つくづく思う。



 さて、高畑監督の『かぐや姫の物語』を見ながら、平安時代から今に続く日本の自然描写の見事さに目を奪われてしまったのだが、それは私の疎開体験につながるからだ。

 むかしも今も基本的には変わらないと思うが、子どもというのは残酷なものだ。いなかの子どもだから、都会の子どもよりも素朴というわけでもない。

 指扇(さしおうぎ)の石川家で暮らしていた頃には、近所の子どもたちと裸足になり、泥まみれになって私は遊んでいた。

 石川家の前にはかなり大きな木があった。それがなんの木だったか思い出せないのだが、私は木登りの好きな子どもだった。

 ある日、近所の子どもたちと遊んでいた私は、皆にそそのかされて、その木に登った。かなり高い木で、下から最初の枝も、子どもの目からはかなり高い場所にあった。

 その枝に私はまたがっている。

 下の子どもたちが、私を見あげている。

 「飛び降りろよ」とひとりが言った。

 すると、他の子どもたちも、「飛び降りろ」「飛び降りろ」と口ぐちに言うのだった。

 この枝からは高すぎて無理だと、私は思った。

 そうなのだけれど、下から悪ガキどもは、はやしたてている。「飛び降りろ」と。






第31回は12/20(金)更新予定です。 


■展覧会・講演情報■

【展覧会】
小野佐世男展 ~モダンガール・南方美人・自転車娘~

[会期] 2013年10月31日(木)~2014年2月11日(火・祝)
[場所] 京都国際マンガミュージアム 2階 ギャラリー4、ギャラリー6
※無料(ミュージアムへの入場料が別途必要です)