高畑勲監督の新作長編『かぐや姫の物語』を、私はそう思いながら見つめていた。
もちろん宮崎駿監督の長編アニメにも『となりのトトロ』をはじめとして、ふんだんに自然描写が出てくる。「トトロ」で、黒い輪郭線のかわりに、うす茶色の線でかこんで描いた植物群は、やわらかく美しかった。もっとはるかにさかのぼれば、1945年アジア太平洋戦争末期に瀬尾光世監督が手がけた長編アニメ『桃太郎 海の神兵』では、タンポポの綿毛が飛んでいく美しい場面があったことを思い出す。この綿毛が、パラシュートのイメージに重なっていくのだが……。
『かぐや姫の物語』が、それらと違っているのは、全編を筆によるスケッチのような絵のスタイルで貫かれていることだ。淡彩のやわらかな描線によって、動物や昆虫たち、そして樹木、草花が生きて変化していくありさまがくりひろげられていく。
画面をみっしりと色彩で埋めつくすのではなく、背景の白色を生かしており、日本画が動きだしたような効果が作品全体を貫いている。
それは一見かんたんなようで、非常に高度な技術の達成がなければ不可能にちがいない。
自然が息づいている――と、そう感じたのは映画の発端、竹やぶのなかで(切った竹のなかからではなく)タケノコのなかから輝いて生まれてくるかぐや姫のシーンからだ。まわりの自然描写の、なんと丁寧で細やかなことか。
花のつぼみがゆっくりと開いていく場面、その上を飛びかう蜂などの昆虫、草のあいだから跳ねるバッタ、さらには歩く一匹のアリの姿までも、画面の中央に見せる場面もある。もちろん、スズメなどがちょこちょこと歩き、飛びたつ場面、カエルが跳び、さらにはイノシシの子どものウリボウが走る。草花がゆれ動く……。
自然の細部を、時にズーム・レンズのように接近し、時には花咲く桜の樹木の全景を広く見わたす――かぐや姫が成長していく幼女時代のいなか描写と、村の子どもたちの遊びや日常の暮らしのありさま。
それらの風景を、私は自分が疎開していた頃の埼玉県指扇(さしおうぎ)の農村ですごした日々のながめに重ねていた。
私がこれまで生きてきたなかで、あれほど自然のなかですごした日々はなかったのである。私は東京に生まれ、ずっとこの都会で暮らしてきたのだが、わずか二年弱の疎開さきで体験したことが、なおも私のある重要な部分をかたち作っていることは確かなのだ。
おそらく小学校に入学する前後という、すべてに敏感だった時期にそうした環境にいたからこそ、いまだにその記憶が私の自然への感応のしかたに表われているのにちがいない。
この高畑勲氏による『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999)以来の長編アニメのなかで、成長したかぐや姫は都(みやこ)にあがり、彼女を見そめた貴族や帝(みかど)にすら言い寄られるが、幼女時代のいなかの自然への激しい思いがつのっていく。
彼女がいっとき故郷への脱出をくわだて、そこで幼なじみの男の子(いまは成長し、結婚、赤ん坊もいる)に会う場面では、一種の魔法のはたらきがおこる。
それは、かぐや姫のミステリアスなパワーなのかもしれないが、ふたりは手をとりあって空を飛ぶのである。その場面で私は、クリストファー・リーヴ主演の1978年のハリウッド大作『スーパーマン』のシーンを思い出してしまう。あの『スーパーマン』の映画を見ていれば、誰でもそう思うのではないか。
ただ、ハリウッド映画では、スーパーマンが主導してマーゴット・キダー演じる女性リポーターのロイス・レーンと共に空を飛ぶのだが、このアニメではかぐや姫の導きで、いなかの青年はおそるおそる浮上し、やがて不安などないように笑顔になって、かぐや姫と手をつないで楽しげに空を飛ぶのである。
飛行場面といえば、同じスタジオ・ジブリの宮崎駿監督の得意とするところだが、『かぐや姫の物語』のこのシーンで、高畑監督は、見ていてほれぼれするような見事な飛行シーンを描いてみせてくれるのである。私はスーパーマンになったかぐや姫と、いっしょに空中に浮いた青年の気分を味わっていたが、このアニメはさらにそのあとがある。
*第30回は12/13(金)更新予定です。
■展覧会・講演情報■
【展覧会】
小野佐世男展 ~モダンガール・南方美人・自転車娘~
[会期] 2013年10月31日(木)~2014年2月11日(火・祝)
[場所] 京都国際マンガミュージアム 2階 ギャラリー4、ギャラリー6
※無料(ミュージアムへの入場料が別途必要です)