私は、木の枝の上に立ってみる。恐い。
「飛び降りろ」と、声は続く。
そして私は、思わず飛び降りてしまったのである。
地面に落ちた私の足に、激痛が走る。
倒れたまま、動けない。
泣きだしたのかどうか、覚えていない。
子どもたちがかけ寄ってきて、私をとりかこみ、持ちあげようとしていたように思う。
皆、びっくりした顔をしている。
「おばちゃん、小野くんが……」
と、何人かが門のなかにはいって母を探した。
母が飛び出してきた。
近所の遊び仲間の子どもたちは、まさか私が本当にあの高さから飛び降りるとは、思わなかったろう。
それでも「飛び降りろ」と口ぐちにはやしたてたのは、子どもの無邪気な残酷さとも言えるが、子どもたちの遊びのなかでの勢いというものがあったのだと思う。
だれかが「飛び降りろ」と言うと、いっしょになってはやしたてたくなってしまい、その勢いは止まらなかったのだろう。
つまり、それを真(ま)に受け、飛び降りなくちゃと思った私が愚かだったのだ。
疎開さきでのこの出来事を思い返すたびに、いまでも私は母の悲しみと苦労を思って涙が出てしまう。
とにかく医者に見てもらわなくてはならないが、病院は大宮まで行かなくてはない。
母は走りまわり、石川家に出入りしている用人に頼み、動けない私をリヤカーに乗せて、病院まで連れていくように手配した。
リヤカーには自転車をつけ、その男が乗ってリヤカーを引いてゆっくり走る。母は付き添ってそばを歩いていく。いっしょにリヤカーに乗ったときもあるかもしれない。
坂道になると、もんぺ姿の母はリヤカーを押した。そうして母は、当時の指扇(さしおうぎ)から見れば都会である大宮の外科病院に、毛布にくるまってリヤカーに乗っている私を連れていったのだった。
レントゲン写真が撮られ、あとでその写真を見た記憶がある。左足のひざから下の部分の骨に、ひびがいっていた。
その部分に薬を塗られ、副木があてられた。足は包帯でぎりぎりとしばられ、また私たちはリヤカーで帰っていく。骨を痛めた私は発熱し、リヤカーの上でうつらうつらしていたのではないか。
それから私は、何度大宮までリヤカーで往復したことか。石川家の部屋では横になっているほかない。当然、学校は休んでいる。そうした状態がどのくらい続いたのか、正確には覚えていない。
いったいそれは、父が復員する前だったのか、その後のことだったのかもはっきりしない。たぶん父の帰国後ではないかと思うが、まだ大宮へ行くバスは走っていなかったのは確かである。6、7歳の子どもだったのだから、回復するまではそんなに長くはなかったろうが、ともかくこれは、私の体に骨折もしくはそれに近い事態が起きた最初だった。
高いところから少年が飛び降りる――ということの重要性について描いていたのは、後に私が小学五年生のときに翻訳が初めて出たエーリヒ・ケストナーの小説『飛ぶ教室』だった。
そのなかに、ギムナジウム(ドイツの寄宿中学)校のクラスでいちばん小柄で、臆病者のように思われたウリーという生徒が校庭の鉄棒の上から、傘をひらいて手に持ち、仲間の見ている前で飛び降りる場面がある。
ウリーは当然のことながら、骨折し入院する。そうなることを承知のうえで意図的に皆を集め、仲間の面前で飛び降りたのだった。
彼は、どうしてもそうしなければならなかったのである……。
『飛ぶ教室』という、私がたまらなく好きな少年文学については、いずれ詳しく書くことになるだろうが、実はこの小説を読んだときには、ウリー少年の事件と私が疎開さきで木から飛び降りたこととを結びつけて考えなかった。しかし、いまこの文章を書きながら、ケストナーの傑作小説に登場した飛び降り少年のことを思い浮かべたのだった。
ウリー少年は、彼が生きていくうえで、鉄棒から飛び降りて足を骨折する必要があった。しかし私の場合は、まったく私の意志に反し、ただ成り行きのうえで飛び降りることになってしまったにすぎない。
その愚かな子どもの愚かな行いのために、母に心配をかけてしまったのである――というようなことを回想しながら、私たち一家が東京に帰る日が近づいてきたのだった。
*第32回は12/27(金)更新予定です。
■展覧会・講演情報■
【展覧会】
小野佐世男展 ~モダンガール・南方美人・自転車娘~
[会期] 2013年10月31日(木)~2014年2月11日(火・祝)
[場所] 京都国際マンガミュージアム 2階 ギャラリー4、ギャラリー6
※無料(ミュージアムへの入場料が別途必要です)