2014年11月14日

第74回 新宿御苑への秘密通路

 「では、小野君と藤林(ふじばやし)君、ちょっと自己紹介を……」

 都立新宿高校に1955年9月の第二学期から途中入学したとき、私が入れられたクラスには、もうひとり藤林君という同じ編入生がいた。教室のいちばん後ろの席に私たちはいたのだが、私はとても恥ずかしくて、立ちあがって同級生たちにあいさつすることができなかった。そんな私を見て、藤林君もあいさつをしないでいた。

 顔を見合わせてもじもじしているふたりに、担任の先生は「では、まあいずれあとにでも……」と言って、無理にあいさつさせようとはしなかった。今思い返しても、どうしてあのときあいさつができなかったのか、自分ながら信じられない思いで恥ずかしくなる。しかし、そうした恥ずかしがり屋の自信の無さから来る私のおどおどした性格は、今でも実は続いているな――と、しばしば感じる。

 私の父は子どもの頃とても恥ずかしがり屋だったと、昔を知る父の姉に聞いたことがある。マンガ家となり人気を博し、1930年代にはマンガ家として初めて東京の日劇の舞台で絵を描きながらのトークショーを行った。戦後は話術で人々を笑わせ、マンガ家仲間の忘年会では両手に丸いお盆を手に素っ裸で舞台に出て、音楽に合わせて前を巧みに隠しながらの裸踊りは有名になった。

 座は爆笑の渦だったが、同席した雑誌『オール讀物』の女性編集者が「見ていてとても恥ずかしかったわ」と、後に私に語ったことがある。「伝統芸を絶やしてはいけない」と、父の死後、別のマンガ家がこの裸踊りを引き継いだが、とても小野佐世男の踊りのユーモアと明るさ、きわどいけれど上品な踊りとは比べものにならないと、本人も知っていた。そのマンガ家も、すでに故人である。

 そんな人を楽しませることの達人であった父について、「小野ちゃんは、とても照れ屋だったよ」と、親友だったマンガ家の横山隆一氏はエッセイのなかで記しているし、私にも話していたものだ。

 父の恥ずかしがり屋の性格も、私は受け継いでいると思っているが、そんな自分が、いまでは時として、三百人もの学生を相手に大学の大教室で講義をすることもあるのだから、不思議でならない。



 都立新宿高校は当時、日比谷高校や戸山高校などの都立校と並んで、いわゆる受験校として有名だったが、その雰囲気は驚くほど自由で、良い意味でちょっと荒っぽいところがあり、私はすぐに気にいった。

 例えば校舎はぼろぼろで、階段などガタガタ音をたてた。毎朝8時半に校庭に全生徒を集めて行われる朝礼の場で、「新しい校舎に建て直してほしいのだが、なかなかこの校舎が壊れないんだ」と、教頭先生が、もっと生徒が乱暴に歩いたりして壊してくれないと困る――と、暗に期待しているような話をするほどで、私は驚き笑ってしまった。

 おんぼろぶりは校舎だけではない。

 都立新宿高校は、新宿御苑と境界を接していた。その境界のコンクリートの塀は、校庭にずっと伸びて続いている。

 だがその塀に壊れた部分があり、人がかがんで通れる穴になっていた。このことは新宿高校生だけの秘密として、先輩から受け継がれてきており、昼休みなどに生徒は破れ穴を抜けて御苑に忍び込み、木立ちを抜けて広い芝生の上で弁当を食べることもできたのである。

 もちろん学校では、そんなことは禁じており、朝礼でも先生は、しばしば破れ穴から御苑に入ってはいけないと注意するのだが、私の在学中もその後も何年かはその穴はふさがれることはなかったのだから、先生たちも御苑への出入りを大目に見ているようだった。

 あまりおおっぴらにやってはまずいことは生徒たちも当然知っていて、目立たないように行き来していた。



 都立新宿高校は、代田の私の家から小田急線ですぐだから好都合だった。当時の月謝は五百円だったので、母はあまりの安さにびっくりしたものだ。私立の成城学園はずっと高かったに違いない。

 父の死後、母は、父が建ててほとんど使うことの無かったアトリエで、子どもたちに絵を教える絵画教室を開いた。

 母は戦前の女子美術大学の卒業で油絵を描いた。父とは、結婚後も絵を描いてもいいという約束で結婚したのだが、とてもその時間は無かったのである。

 画塾を開くといっても、子どもたちが集まってくれるかどうかわからなくて、母は不安だった。しかし、少数の知り合いの子どもたちの絵が上達し、小学校で絵の成績が良くなっていくので、次第にクチコミで評判になり、生徒たちが増えていった。

 初めは日曜日だけ教えていたが、土曜日にも開き、幼稚園児や小学生のほか、中学生も来るようになる。その後、近くのキリスト教系の幼稚園(妹が通っていた)から子どもたちに絵を教えてくれるように頼まれ、母は毎週通うようになった。

 家の庭も広く、草花も季節ごとにきれいに咲いたから、子どもたちも付き添いの母親たちにとっても楽しかったのだと思う。

 母はこの仕事を60歳で亡くなるまで続け、一家を支えていくことになる。

 新宿高校での私の日々も順調だったと言うべきなのだが、恐怖の時が来た。

 体育の時間である。



*第75回は11/21(金)更新予定です。