2013年3月28日

第0回 KOSEIの次元ドリフトが始まる。

 エジプトのルクソールで、観光客を空中に案内する熱気球が燃えて落下し、日本人を含む海外からの多くの観光客が死亡するという事件があったとき、ある新聞社の記者とテレビ局の番組担当者から、それぞれ電話がかかってきた。熱気球パイロットのライセンスを持っている私に、この事件についてのコメントを求めてきたものだった。

 私はそれに、返事をしていない。というのは、留守電に録音されていた電話を私が聞いたのは、その翌日だったからだ。こうしたコメントは、一日ずれたらもう意味がない。それを知っていたから、相手の電話番号は録音されていたが、私はあえて電話をしなかった。

 それで良かったと思う。しばらくすると、この事件に関して、私もメンバーである日本気球連盟の広報担当者である太田耕治氏のコメントが載った。さらに彼はテレビにも出演して、熱気球用のプロパン・ガスのシリンダーを示しながら、考えられる事故の原因について、わかりやすく的確に説明しており、さすがだと思った。

 私がエジプトに初めて行ったのは、1980年代のことである。画家の合田佐和子さんや詩人の白石かずこさんたちと一緒の旅行はすばらしかったが、当時は熱気球による観光は、まだなかった。ルクソールの見学で覚えているのは、遺跡のなかの絵に、今でいうアイスクリーム・コーンのようなものを手にした人の姿が彫られていたことだ。エジプト人のガイドが英語で「こんな昔からエジプトにはアイスクリームがあったのです」と説明した。それで私と白石さんが「まさかねえ、観光客用のおもしろい冗談だよね」と、日本語で小声で話していたら「あなたたち、いま、私の話はうそだと言っていたでしょう?」と、すぐにガイドにわかってしまった。「もちろん、現在のアイスクリームとまったく同じではないけれど、似たような氷菓子があったのです」。

 それにしても、15人もの観光客を乗せる気球のバスケットは巨大だ。アフリカのケニアでも、空中から動物の群れを眺める観光用の十人乗りの熱気球をイギリス人のパイロットが操作していて、日本からはマンガ家のヒサクニヒコ氏や、アニメ作家の古川タク氏が経験している。

 私が観光用の熱気球に乗ったのは一度だけで、アメリカのフロリダにあるディズニーのマジック・キングダムの上空を早朝に飛ぶ気球だったが、まあ五人乗りほどの大きさのバスケットだった。アメリカ人のパイロットに、私も熱気球のパイロットだと言うと、「じゃ、ちょっとバーナーを操作してみるかい?」と言って、私にバーナーのグリップを握らせてくれたが、レヴェル(水平飛行)もうまくできない私の腕を見て「きみのパイロットとしての飛行経験時間はあまり長くないな」と、すぐに見破られてしまった……。

 ルクソールの気球事故では、火災が起きたら、パイロットが乗客を残して、真っ先に飛び降りてしまったことが問題になっていたが、それで思い出したのは、私が熱気球パイロットのトレーニングを受けているとき教わったことである。

 「熱気球の場合も、船の船長や飛行機の機長と同じで、パイロット(機長)が絶対の権限を持っている。だから、パイロットが乗客(パッセンジャー)に、飛び降りろと言ったら、飛び降りなくちゃいけないんだよ」

 熱気球のインストラクター(指導教官)のこの冗談を、私は忘れない。それだけパイロットの責任は重いということなのだが、熱気球で空中に浮いていると、不思議な気分になることがある。雲がそばにあり、気球の影がそこに映っている。その雲のなかに気球がはいっていったら、そこにはまったく別の世界がひろがっているのではないか……。

 そんなことを思ったのは、アメリカのマンガ家ジェフ・スミスの新作長編グラフィックノヴェル『ラズル』(RASL)が完結したからだ。これはパラレルワールドを転々と行き来する主人公の冒険で、作者は「私はハードボイルド探偵小説が好きで、それとSFを組みあわせた長編だ」と述べている。ジェフ・スミスはその前に、『ボーン』(BONE)という全1300ページもの長編ファンタジー・コミックスを発表、これがベストセラーになり、その全9巻のうち最初の3巻を私は翻訳した(晶文社刊)。


『ラズル』(RASL)

『ボーン』日本語版 1~3巻(晶文社)


 これは小学生からおとなまで楽しめる内容だったが、新作の『ラズル』は、明確におとな向きの作品である。パラレルワールドを行き来するという着想がおもしろい。その行為を、主人公はドリフト(drift)と呼んでいる。すると、これから私が書いていこうとする一種の回想、もしくは自伝は、さまざまな世界をドリフトする試みかもしれない。世界のマンガやアニメや映画そのほかの次元へと、私はドリフトすることになる。「きみは子どもの頃から、海外マンガやアニメに親しみ、その作者たちに会ってきているから、そのいきさつを英語で書き残してほしいね」と、海外のマンガやアニメの関係者たちから、ここ数年、私は折あるごとに言われ続けている。だから、英文で書いてどこかでいずれ発表しようと思っていたのだが、どうやら日本語で書くのが最初になってしまったようだ。

 まあ、それは熱気球でのフライトに通じるところがあるから、それこそうわの空で、意識がどこに漂流しドリフトしていくのかは、自分でも不明なのだけれども。




*第1回掲載は5/3(金)を予定しております。以降、毎週金曜日更新予定。お楽しみに!