2013年8月2日

第12回 鉄橋を渡る

 私たちは、急に止められた貨車から降りた。

 それから、貨車が進むはずだった方向に、線路を歩いていくほかない。そのとき私たちの服装は、母はモンペ姿に、防空頭巾をかぶっていた。なにか荷物を持っていたはずだ。三人とも、リュックサックを背負っていた気がする。弟も私も、やはり防空頭巾をつけていた。それは、絵本などで見る雪国の子どもの姿に似ている。でも、季節は五月なのだった。

 線路づたいに、明るい陽ざしのなかを歩いていくのは、子どもには一種の冒険であるとともに、楽しくもある。母はずいぶん心配していたにちがいないと、後になって思い返すのだが、子どもはなにも知らずに、事態をおもしろがっていたのだろう。

 どのくらい歩いたか、少し行くと鉄橋にさしかかった。はるか下に川が流れている。私たちは、両手をついて這うように、ゆっくりと鉄橋を渡っていった。ときどき立ちあがってみせたかもしれない。

 気を配って、用心しながら渡っていたが、足がすくむようなことはなかった。三歳の弟は、少し恐かったかもしれない。この橋がどこにあったのか、先日法事で川越に行く機会があったので、赤羽から埼京線に乗って、窓から外を見ていた。まず、日進駅から西大宮駅のあいだに小さな川があって電車は渡ったが、鉄橋とは言えないものだった。

 次に、指扇(さしおうぎ)駅から南古谷駅のあいだにかなり大きな川があり、まさに鉄橋で越えている。この橋が記憶にある鉄橋のように思えた。

 橋を無事に渡って、なおも線路を歩いているうちに、陽がくれてきた。目的地だった駅までたどりついたはずだが、駅員がいたのかどうか、覚えていない。

 私たちの目的地の住所は、埼玉県指扇市だったはずだから、駅は指扇駅だったのか? すると指扇駅を過ぎてから鉄橋を越えた私の記憶と合わない。あるいは南古谷駅から、ふつうの道に出たのかもしれない……。

 なにしろ疎開するのだから、なんだか東京からずいぶん遠くまで行ってしまった気がしていたけれど、いま鉄道図を見ると、どちらの駅から出たとしても、東京からたいして遠くはない。といっても、60年以上前のそのあたりは、現在とはまったく別の土地のようだったはずだ。




 駅からの道を、母は当然のことながら知っていたようで、暗い田舎のうっそうとした樹木のあいだの道を、私たちは歩いていく。日が沈んでいるので、こころ細い思いがした。むしろ、危険であったはずの鉄橋を渡るときのほうが、ずっと元気で、気持ちもはずんでいた。

 街灯などない田舎の夜道はさびしい。人家のあかりも多くない。子どもたちのお腹がすいてきたのではないかと、母は心配になったのだろう。人家のあかりが見えてくると、母はそこに立ち寄った。

 農家である。母はその家の人にあいさつをした。そして、タマゴをわけてもらう。三人だからタマゴは三個で、それを割って私たちは飲みこんだ。生タマゴを飲むのは、そんな珍しいことではなかった。朝ごはんをどこかですでに食べていたとしての話だが、それがこの日の二度目の食事だったのではないか。

 母は、農家の人に、いくらかのお金を払っていた。埼玉県の農家のあたりは東京での空襲さわぎなど、うそのように静かだった。タマゴを飲むときだけ、私たちは頭巾をぬぎ、少し気持ちを落ちつかせていた。

 それからまた歩きつづけ、私たちが目的の疎開さきの家にたどりついたのは、もう夜も遅くなっていた。



 その家で、どのように私たち三人がむかえられたかは、よく覚えていない。夜だったから、家の様子もはっきりしなかった。なにか食べさせてもらえたのか、すぐにどこかで寝かせてもらえたのかもしれない。

 それは、とても大きな地所にある大きな家であることが、だんだんわかってくる。そこに住んでいるのは、おばあさんがひとりだった。彼女の息子は出征し、どこかの戦場にいるはずだった。それは、むかしの床屋の家だったのである。



 まず、家の入口にある門が、すごかった。

 子どもごころにも、巨大だった。頑丈な分厚い木で作られ、要所に黒い金具がつけられていて、そのころは知らなかったが、後に時代劇映画で見た代官所の門がまえに似ていた。

 その門は、日暮れになると、女主人であるおばあさんが木の棒と両とびらの鉄の枠のあいだに通して、がちゃりと大きな鉄製のかんぬきを閉める。そして、夜明けと共に、おばあさんは、棒を抜いて門を開けるのだった。

 その門のはじに私はとびついて、厚い門につけられている金具――というか鉄のとめがねのようなものにつかまり、開く門といっしょに動いた。つまり、巨大な門のはじにしがみついて、足を地面から離してからだを浮かせ、門といっしょに動く。弟もいっしょにそれを楽しむようになる。小さな子どもだから許された遊びだったのだろう。

 その門を開くと、なかは裏山まで続くその家の所有地なのだが、門のうしろの右側にひとつ部屋があった。そこは、かつてこの家の門番が寝泊りした場所なのである。つまり、門番小屋みたいなものだ。

 その三畳ほどの部屋が、私たち母子三人が住むように与えられた場所なのだった。





*第13回は8/9(金)更新予定です。