2013年8月9日

第13回 『風立ちぬ』とオオバコの花

 宮崎駿監督の新しい長編アニメーション『風立ちぬ』を見て、私の体験した空襲後の東京の焼け跡のイメージが重なった。

 この映画は1923年の関東大震災の場面から始まる。崩れる家屋と火事。それが収まったあと、主人公は壊れた風景のなかに残る水道管の蛇口をひねって水を飲む。なるほど、災害の風景は似ている……。

 主人公の落ち着いた、どんな場合にも乱れない声、そのしゃべりかたがキャラクターに合っている。知っている俳優の声とはちがうと思っていたら、声を演じているのは『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメを作った庵野秀明によるものだった。

 映画全体を通じて、そのしゃべりかたは一貫している。常におだやかな、上品な話しかた……。それを私は好ましく感じたが、この育ちの良さそうな主人公の、あわてず騒がずといったしゃべりかたは、軍用機の美しさに自分を捧げていくこの男にふさわしい。しかし役柄にぴったりなので、ことによったら声優自身も気がつかなかったであろう主人公の性格上の欠陥をも表してしまっているかもしれない……と、あとになって気づいた。

 この映画を見て涙する男は多いかもしれないが、女性はどうだろうか。私の知人の女性は「涙は出なかったわ」と言う。これは零式艦上戦闘機を設計した堀越二郎と、堀辰雄の小説『風立ちぬ』『菜穂子』に登場する病床の恋人をカップルにした一種のラブストーリーとも言えるが、「この良家の子女である菜穂子は男にとって都合のいい女性だから、男の目から見れば涙をさそう内容でも、自分にはそれほど……」と彼女は言う。「むしろ、主人公の妹で、医師のタマゴの女性のほうが、自分の生きかたをしていて興味があったわ」

 たしかに私も、この元気な妹の登場場面をもっと見たかったと思う。この時代の若い女性のなかで、自己実現に懸命な彼女の姿が私をひきつけるからだ。

 また、この映画に出てくる飛行機は、零戦にしても、ドイツのユンカース急降下爆撃機にしても、すべて実際のそれと同じではなく、宮崎駿による独自のデザインで登場してくる。そのことから、この映画の戦争の時代は、パラレルワールドとしての別の地球や日本の物語、つまりファンタジーとして描いたのではないかと、映画を見ながら私は感じていた。

 ささいなことだが、気になった点をひとつ。零戦の速度測定をするときに、ストップウォッチを押す場面がある。そのとき、右手で時計をつかみ、親指のさきでストップウォッチを押している。

 日本の軍隊で、そんな押しかたをしていたとは私には信じられない。いや、テレビ番組のスポーツ場面などでもストップウォッチを押すとき、必ず手の親指のさきで押すのが、私はずっと気になっている。

 私は1963年にNHKに入局し、制作現場に配属された。するとストップウォッチを支給された。正確には貸与されたのであり、退局するときや事務職に移ったときは返却しなくてはならない。だが、放送の現場では必需品なので、いつもズボンのポケットにストップウォッチをいれ、そのひもを腰のベルトに巻きつけていたものだ。

 入局して最初に習うのが、ストップウォッチの押しかたである。手のひらに収めて、時計の竜頭の部分を親指のつけ根にあてて、つけ根で押すのである。それが、最も速く押す方法なのだ。親指のさきで押すとちからがはいらず、遅れてしまうため、絶対に親指のさきでは押さない。

 放送局で働く者は、すべてそのことを知っているはずだが、テレビドラマなどでは親指のさきで押す場面ばかり出てくるような気がする。それはプロの押しかたではない。でも、そのほうが画面としては見せやすい。『風立ちぬ』の場合も、間違いと承知のうえで観客にわかりやすいように、指さきで押すようにしたのか――関係者にきいてみたいところだ。




  恋人がサナトリウムで養生している軽井沢の風景がきれいに描かれていて、笹の葉など植物も画面の道に生えている。

 そのなかで、オオバコが一瞬うつる。すぐにオオバコとわかって、なつかしい気持になったのは、私が疎開さきの指扇(さしおうぎ)の村の道で、オオバコに親しんでいたからだ。

 オオバコは別に軽井沢に限らず、どこにでもある草だが、強い草だ。ひっこ抜こうとすると、地面に出ている部分だけとれて、根は残ってしまう。根までとるにはちょっと深くシャベルで掘らないといけない。人が踏み歩く固い土からもよく生えている。

 オオバコはウサギが好きな草だ。ウサギを飼っている農家が多く、オオバコをさしだすと、ウサギはもぐもぐとすぐ食べてしまう。ウサギには水っぽい草は良くない。ウサギのおしっこはとても臭い――というその頃の記憶がある。オオバコを見ると、私はいつもウサギを思いうかべる。



*第14回は8/16(金)更新予定です。