毎年、年賀状のやりとりをしているのだが、もう20年近く会っていないのではないか。
自伝のようなものを書き始めるにあたって、その人をお訪ねして、むかしのはなしをおききしなくては――と思いつつ、そのままになっていたのである。意を決して、夕食を終えた夜の８時半に電話してみた。
「あ、小野さん？ いつも楽しい年賀状をくださるかたですね」と、まず電話に出た女性が私に言う。「わたしはミドリです」と彼女。私はミドリという名に記憶がない。「母はおかげさまで元気ですよ。いまかわります」
私が電話したのは、石川栄子という人である。さいたま市の浦和に住んでおいでだ。ちょっと間があって、本人の声がきこえた。私たちは、１時間ほど電話で語りあった。いろいろなことがわかった。基本的なことからおききする。
「私たちが疎開した家は、私の母（小野寧子。旧姓・松本）の母（私の祖母・松本愛子）の実家だったんですね」
「そうですよ。愛子さんの旧姓は石川です」
「家を仕切っていたおばあさんは、子どもの私には、とても怖い感じがありましたけど……」
「あら、私の義母ですよ。石川きよという名で。私の夫の石川正夫は、もう30年前に亡くなりました」
「栄子さんと正夫さんが戦争が終わって帰ってきた日のことを、よく覚えていますよ」
「あら、そうでしたか」
「指扇の家で、ある夜、あの大きな門をたたく音がして、『ただいま』という男の人の声がして……。石川きよさんがとびだしてきて門をあけて。……泣いていましたね。息子が奥さんを連れて、戦地から帰ってきたのですから」
「夫と私は、戦争のあいだ中国を転々としていたんですよ。最後は北京にいて、そこで終戦をむかえて、中国から引揚げてきたのです。まだ小さい娘のミドリを抱いて……」
「栄子さんは、まだ20代で若かったですね」
「私たち夫婦は、いとこ同士の結婚だったんです。いま、私の子は３人います。長女のミドリの下に、男の子と女の子がいて、みな大きくなりました。いま私は、孫11人、ひ孫６人のおばあさんなのですよ」
「戦地から帰られたのは、いつでしたか」
「1946年の４月26日に日本に着いたので、４月末か５月の初めでしたね。あなたのお父さまが復員（戦地から帰る）されるよりも少し早かったですね」
「私の父（画家・小野佐世男）がインドネシアから戻ったのは1946年５月末ですから、私たちの疎開さきに来たのはその後で、栄子さんたちより少しあとですね」
「あの石川の家は、とても大きな門があって、そのうしろのむかって右側にある部屋に私たちは住んでいましたが、あの部屋、３畳くらいですかね…」
「いえ、もっと大きいですよ。６畳か８畳あったのじゃないかしら。左側にも同じ大きさの部屋があって、そこに私たち夫婦が住むようになったのですから」
「あの大きな家の石川家は、もと庄屋かなにかで……」
「いえ、あのあたりの大地主だったんです。周囲の農家の人たちからは、女主人のきよは『石川のおかみさん』と呼ばれていました。おかみさん――ということばの意味あいが東京などとは違って（八百屋のおかみさんなどと言うのとは別で）、敬意を示した呼びかただったんですよ」
「では、戦後の農地改革で、土地を手ばなすことになったのですね」
「そうです。不在地主でしたからね」
「あの大きな家の作りは、どうなっていましたか」
「私たち夫婦の部屋の左のほうに、きよさんの部屋ともうひと間続いていて、さらに奥に古い土蔵がありました」
「きよさんの部屋のまえあたりの庭に井戸があって、よく水をくみました。草が繁っていて、夜はスイッチョの鳴き声がして、バッタが羽根を鳴らして跳んでいたり……」
「そうでしたね」
「そして、門をはいって正面、庭のまんなかに大きなクスノキがそびえていたのを、よく覚えています。さらにまっすぐ行くと裏山で……」
「山というより、やぶの繁みね。なにもないのよ」
「そのやぶのあいだの道なき道を歩いていくと、古い使われていない、水のない井戸の跡があって、のぞきこむと、ヘビがとぐろを巻いていたりしました。それから、ヘビイチゴと子どもたちが呼んでいた小さなイチゴがなっているのをとって、食べたりしました……」
そういうはなしをしていると、きりがない。おとなだった栄子さんが気づかなかった子どもの世界の思い出である。栄子さんと話して、母と私と弟が住んでいた部屋は、６畳ほどの大きさだったことがわかった（８畳はなかったと思う）。石川栄子さんは、いま88歳とのこと。いずれ私は、浦和に住む彼女を訪ねることになるだろう。
＊第15回は８/23（金）更新予定です。