2013年10月25日

第24回 ことし一番の映画はなにか?

 今月は、長編アニメから引退するという宮崎駿監督のことに触れたが、アニメとは別にこれまでのところ今年の外国映画のベスト1だと思っている作品がある。

 『ハンナ・アーレント』というその映画は、今月末から岩波ホールで公開されるのだが、監督はマルガレーテ・フォン・トロッタという女性監督。ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作映画である。

 内容は、アメリカに亡命したドイツ系ユダヤ人哲学者の物語。ナチスのユダヤ人収容所を生きのびた彼女は、哲学者ハイデッガーに学んでいる。アウシュヴィッツ収容所にユダヤ人を送りこんだ責任者として捕らえられたアイヒマンの裁判を傍聴し、そのルポをニューヨーカー誌に掲載する。

 悪魔のようだと断罪されたアイヒマンについて、彼女は「悪魔というのはもっと深味のある存在で、アイヒマンはそうではない」と述べ、非難の嵐にさらされる――という内容だが、私はこれは、アイヒマン問題を描きながら、実は反知性主義を批判した映画だと受けとめた。

 そして、偶然なのだが、私が定期購読している朝日新聞社のPR誌『一冊の本』の9月号を見ていたら、佐藤優氏が「ラスプーチンかく語りき」という連載対談のなかで「反知性主義は知識人のなかにもある」という意味のことを語っていて、非常に納得できた。

 反知性主義というのは、現在も過去も、世界のあらゆる場所に残念ながらはびこっていて、これを克服するのはとても難しいと私はずっと思い続けてきているので、映画『ハンナ・アーレント』と『一冊の本』のなかでの発言は、わが意を得る思いがした。

 またハンナ・アーレントがルポルタージュを載せるニューヨーカー誌の当時の編集長は、ウィリアム・ショーンである。

 週刊誌『ニューヨーカー』の初代編集長はハロルド・ロスで、彼については、作家のジェームズ・サーバーが『The Years with Ross(ロスとの歳月)』という回想録を書いているが、邦訳はない。そして二代目の編集長がウィリアム・ショーンなのだが、私は彼に会っている。

 1980年、『週刊朝日』が増刊としてニューヨーク特集号を出したとき、私はニューヨークに派遣されて、『ニューヨーカー』の編集部を訪ねた。編集長のショーンに会うことまではそのとき考えていなかった。ニューヨークに長期滞在したことがあり、亡くなったばかりの植草甚一氏についてニューヨーカー誌に書いたライターがおり、その人を訪ねて取材するのが目的だった。

 それはアントニー・ヒスという記者だったが、いろいろ話すうちに彼は「編集長に会ってみないか」と、親切にも言ってくれたのだった。

 実のところ私は、ウィリアム・ショーンについて詳しく知らなかったのだが、とにかく一時間インタビューすることができた。そのときは「ニューヨーカー誌も、ついにカラーの写真や広告を載せるようになったのですね」といった話をしたのだが(1980年の『週刊朝日』ニューヨーク増刊号に、そのインタビューは載っている)、彼が1960年代にハンナ・アーレントのアイヒマンについてのルポを載せたときの編集長だということは知らなかったのである。

 映画に登場する(俳優の演じた)ウィリアム・ショーンを見ながら、1980年に彼にもっといろいろきいておけばよかったと残念でならなかった。その後、ショーン亡きあと彼についての本(彼の愛人が書いたもの)が数年前に日本で翻訳刊行され、改めてショーンについて多くを知ったのだった。他にもう一冊、ニューヨーカー誌についての本が邦訳されていて、そこにもショーンのことが出てくる。

 ことによったら、ウィリアム・ショーン氏にインタビューした日本人は、私ひとりではないのか――という思いがある。もし間違っていたら、お教えください。



 ただ、ショーン氏に会ったとき、私はひとつだけ極めて個人的なことをした。ニューヨークに取材に行くとき、私は画家であった父のささやかな画集――というかパンフレットのようなものを持っていった。1954年に父が48歳で急逝したとき、その年の秋の二科展で、東郷青児が小野佐世男の部屋を作り、父の絵の展覧会(油絵のすべてと、ジャワ従軍時のスケッチ画、その他を集めたもの)を催した。その作品やエッセイを集めた冊子「小野佐世男画集」を東郷青児が作ってくれた。それを私は、ニューヨークに持参したのである。

 ニューヨーカー誌には毎号マンガが載っていて、それが好きだった私は、「小野佐世男画集」を一冊、別れぎわにショーン氏に渡したのだった。

 それから数か月して、思いがけなくショーン氏から手紙が届いた。「あなたの父上の画集を拝見した。彼はまちがいなく、りっぱな仕事をしたのだ」と記してあった。ショーン氏は、父の画集をきちんと見てくれたことがわかって、私は嬉しかった。ウィリアム・ショーンがそんな手紙をわざわざ書くなどというのは、めったにないことだと、後になって知った。



 インドネシアから復員してきた父が、ヤシの実で作った水筒を手に疎開さきにやってきたのは、1946年の夏だった。



*第25回は11/1(金)更新予定です。 


■講演情報■

●東京女子大学比較文化研究所主催公開講演会
『海外マンガの中の日本女性 「ヨーコ・ツノ」の場合』

[日時]2013年10月28日(月) 10:55~12:25 ※開場10:40
[場所]東京女子大学 24301教室
※申込不要/無料/定員150名