2013年11月8日

第26回 ユーリ・ノルシュテインと私の父

 「父と初めて会ったときは、とても恥ずかしくて、ほとんど口もきけなかった。父とうちとけるまで、ずいぶん時間がかかった」

 と、私に話してくれたのは『霧につつまれたハリネズミ』や『話の話』など、切り絵を用いた短編アニメーション映画で日本でもよく知られている(ことによったら本国のロシアより日本でのほうが有名かもしれない)ユーリ・ノルシュテインだった。

 彼の父親も息子のユーリが生まれてから戦争に出かけ、戻ってきたのは戦争が終ってからかなり時間がたってのことだったのは、ユダヤ人に対する迫害がロシアでもあったことがかかわっているようだった。そのノルシュテインの父に対する気持ちは、まったく私の場合と同じだったので、こうした父子関係は、世界共通なのだなと思ったものだ。

 私の父は、1946年5月末にインドネシアから帰って、すぐに埼玉県指扇(さしおうぎ)の私たちの疎開さきに来たわけではない。

 世田谷の代田にあった父の家は焼けてしまっていたから、空襲を受けなかった下北沢にある父の姉の家を訪ね、そこでしばらく暮らしていた。殺到する雑誌社の仕事をこなし、忙しい日を送っていたのだった。小野佐世男が帰国するというニュースが出版社に伝えられると、手ぐすねをひいて待っていた編集者たちは下北沢の家にかけつけて、原稿を待つ人たちが応接間に集まり、なかには泊まっていく者もいた。まだほとんど電話もひけていなくて、東京にタクシーもまだ復活していなかった頃のことである。父の帰国は、下北沢の親せきから、疎開さきまで電報で知らされた。

 父が、母と子どもふたりが住む疎開さきに来たのは、1946年の夏だったと思う。そのときのことも、それほどはっきり覚えているわけではない。父は、私と弟を、ふたりが生まれたときから知っているのだが、父が戦争に行ってしまったとき2歳だった私には、父の記憶がないのである。

 だから、帰国した父と会ったとき6歳だった私にとって(弟にとっても)、父は初対面の人だった。「お父さんよ」と母に言われても実感はなく、ただひたすら恥ずかしかった。うまく口もきけない。

 ただひとつ、父が帰ってきた日の思い出がある。その頃ライターなどなくて、火をつけるにはマッチを使った。家庭用の大きく四角いマッチ箱がどの家にもあった。だがマッチ棒でする箱の側面の部分には横薬が貼っていなくて別の紙になっていた。

 だから茶色い横薬のシールをマッチ箱の側面に自分で貼らなくてはならない。父はごはん粒をひとつ手にとると、親指でいっきに用紙の裏にぬりひろげ、マッチ箱に貼った。

 「すごい指のちからだな」と、私も弟もあっけにとられて父のしぐさを見まもっていた。小さな子どもではとても無理だとすっかり感心したのを、いまも忘れない。帰国した父は41歳だった。

 「そうだな、いまのおれでも木を背にすれば、三人くらいは相手にできるな」と、もしけんかになった場合のことを、子どもたちに語ったこともある。

 あとで知ったのだが、父はジャカルタで、インドネシアの人たちにいばって当り散らしていた日本軍の上官をたたきのめしたことがあり、それは父の伝説のひとつとなっていた。

 そのとき相手は、もちろん軍服を着ていたのだが、父は相手になぐられながら、その軍服のボタンをひとつずつ外し、上着を脱がせてから、おもむろに上官をやっつけたという。軍服を着ている相手をなぐると、勤務中の上官とけんかしたことになるので、相手を私服の状態にしてからたたきのめしたのだった。

 相手に非のあることは、多くの目撃者が知っていたことでもあり、この件については、父におとがめはなかった…。



 だが、そうした話は、あとになってきいたことで、家でのやさしい父を見ていた子どもの私には、信じられないほどだった。

 また、やさしいとはいっても、やはり父親はこわかった。初対面で、ずっとなじんでいなかったから、小学生になる頃の私たち兄弟には恥ずかしさがさきに出て、父にどんなふうに口をきいたらいいのか、わからなかったのだ。

 父はそれから、ときどき疎開さきにやってきたが、そのときはすぐにわかった。

 疎開さきの家から大通りまで、青あおと稲が育っているあいだに、まっすぐ道が続いているのだが、その道を父がやってくるのが、家からよく見えた。

 大通りには、ようやくバスが通るようになっていた。それも敗戦直後はガソリンなど無くて木炭車だったから、煙を出して走るバスなのだったが、そのバスから降りた父が、まっすぐの道をこちらに歩いてくる。

 いつも皮のバッグを手にしていて、それもインドネシア時代から使っていたものなのだろう。大きな絵の原稿などがはいるほどの大きさで、厚くはないが、しっかりした茶色の手さげバッグだった。

 バッグには、家族へのおみやげがはいっていた。それは日本へ来たアメリカ兵(進駐軍兵士)が持っているCレイション(兵隊食)だったこともある。それにはコンビーフの缶詰めや、ビスケット、チューインガム、チョコレートなどがはいっていて、その頃の日本人にとっては、宝もののように輝いて見えたのだった。





*第27回は11/15(金)更新予定です。 


■展覧会・講演情報■

【展覧会】
小野佐世男展 ~モダンガール・南方美人・自転車娘~

[会期] 2013年10月31日(木)~2014年2月11日(火・祝)
[場所] 京都国際マンガミュージアム 2階 ギャラリー4、ギャラリー6
※無料(ミュージアムへの入場料が別途必要です)