2013年12月27日

第32回 東京へ帰る日、新しいマンガを発見!

 疎開さきから東京に戻る前に、指扇の石川家の周辺で起きたことを少し補足しておこう。

 戦時中と日本の敗戦直後の生活では、たいしたものは食べていなかった。

 それでも農村だから、野菜やイモなどはよく食べていたが、肉はほとんどなかった。ただ一度だけ、村の農家のひとつが、飼っていた牛をつぶしたことがある。

 そのときは、いかにも当時の農村らしく、牛肉が村の全員に配られた。村としては、大きな出来事だった。私たち母子も、新しい牛肉を久びさに食べることができたので、このことは忘れられない思い出のひとつになっている。たぶん焼いて食べたのではなかったか。

 また、村のはずれに、やや知恵おくれの男が住んでいた。小さな崩れかけた小屋で生活している人で、言葉が早くしゃべれない様子だった。子どもにはちょっと恐ろしい感じがしたが、ニコニコと気のいい人のように見えた。

 こうした人は、どの日本の村にもひとりくらいはいたのではないかと思う。村の人たち全体が、その人を見守っている感じで、そうやって共同体はうまくまわっていたような気がする。そういう人がいることを、あたりまえのように受けいれていて、邪魔にはせずに、さりげなく気づかっていたという印象がある。

 私たちが東京に帰る日が、正確にいつだったか、きちんと覚えていない。

 石川家の世話になった人たちと、どのように別れを告げたのかも覚えていない。

 私の鮮明な風景は、ある日、母と弟といっしょに大宮駅の前に立っていたことだ。それは、現在の改築された巨大といっていい大宮駅とはまったく違う、木造の駅舎だった。そして、駅前の広場には、列車の切符を買う人びとの長い列がいくつも出来ていた。

 敗戦直後の東京やその周辺では(いや、たぶん日本中で)列車の切符を買うのは、かんたんではなかったのである。そもそも空襲で駅も列車も焼かれ、列車の本数もじゅうぶんではなかったろう。

 母といっしょに青空のもとで列に並んでいると、まわりには新聞売りのスタンドがいくつも出ていた。そのなかに『子供マンガ新聞』という、日曜日に発売される週刊の新聞があった。

 母は、その4ページの新聞を、私に買ってくれた。1部1円だったことを覚えている。

 新聞の第一面と第四面は、連載マンガによって占められていて、第二、三ページには、子ども向けに書かれたニュース記事と、マンガが載っていた。

 それを手にとって、私がすぐ惹きつけられたのは、第四面に載っていた『ボックリ坊やの新探検』というマンガだった。作者は横井福次郎。

 そのとき読んだエピソードでは、松ボックリの精であるボックリ坊やという主人公が、地球の北極から地下世界にはいっていく内容だった。

 その地下では、巨大な鋼鉄の柱が、ごとんごとんと回転している。その円筒形の柱には、いくつもの歯車が連動しており、その歯車がきちんと動くようにこびとたちがメンテナンスに気をつかっている。

 その地下世界に、こびとたちと同じ大きさのボックリ坊やがいるのである。

 そして、この回転する巨大な円筒こそが、地球を北から南へと23度半の傾いた角度で貫いている〈地軸〉なのだった――という設定。

 私はこのマンガの奇想のおもしろさに、すぐに夢中になってしまった。これが私の『子供マンガ新聞』との最初の出会いだった。

 1946年に子供マンガ新聞社から創刊されたこの新聞については、私は6年ほど前に調べて、早稲田大学の20世紀メディア研究所で刊行している研究誌『インテリジェンス』に発表したことがある。

 このマンガ新聞は、最初4ページ白黒印刷で句刊(10日毎の発行)で刊行されたが、やがて一面と四面は三色刷りとなり、定価も一部五円になっていく。

 そして、大宮駅で初めてこの新聞を手にしたときには知らなかったのだが、すでに戦争から帰ってきた私の父・小野佐世男は、インドネシア(ジャワ)にいっしょに従軍した仲間であるマンガ家の横山隆一とともに『子供マンガ新聞』の執筆者のひとりとなっていて、一面に日本の四季を描く大きな絵などを手がけるようになっていたのである。

 もちろん、横山隆一の人気マンガ『フクちゃん』も、この新聞には連載されていて、なんと最初の頃はセリフがローマ字になっている『フクちゃん』の4コママンガもあったほどだ。世のなかは日本の敗戦とともに一変し、連合軍の占領下にあった日本では、戦争中は禁止されていた英語やローマ字を、人びとはむしろ争って使うようになっていたのであろう。



 大宮駅で切符を買ってなかにはいると、今度は構内のプラットフォームで、列車が来るのを長く待たなければならなかった。

 弟といっしょに構内を歩いていると、ちょっと迷子のようになってしまい、あわてて母のいるプラットフォームに戻ろうとしたが、どうしたらいいのかわからない。

 それで、いまでは信じられないことだが、プラットフォームから線路に降り、線路を越えて次のプラットフォームまで歩いてしまったのだった。

 プラットフォームは小さな子どもには、けっこう高い。すると、上にいた大人たちが子どもが線路を渡ってきたからびっくりしたのだろう。手をさしのべて、私と弟を引っぱりあげてくれた。

 もちろん私たち兄弟がどこに行ったか心配していた母は驚き、私たちは叱られたが、よく考えればプラットフォームの上を歩いていけば階段に行きあたるのだから、陸橋を渡れば別のプラットフォームに行けるのだった。

 そんなことに気がつかずに、不安になり、あわてて線路に降りてしまったのだから、やはり子どもだったのである。



年内の更新は今回で最後です。次回、第33回は来年1/10(金)更新予定です。 


■展覧会・講演情報■

【展覧会】
小野佐世男展 ~モダンガール・南方美人・自転車娘~

[会期] 2013年10月31日(木)~2014年2月11日(火・祝)
[場所] 京都国際マンガミュージアム 2階 ギャラリー4、ギャラリー6
※無料(ミュージアムへの入場料が別途必要です)