2014年6月6日

第53回 「破天荒」な物語

 5月、地下鉄に乗っていたら、となりにすわっている中学生らしい男の子が読んでいるマンガが目についた。

 冒険ファンタジー・コミックスのようだったが、内容よりも、そのマンガの吹きだしのなかの文字に、私は注目した。

 漢字にすべて、ルビが振ってある。

 むかし(つまり1930年代とその前後)の、子ども向きのマンガには、すべて吹きだしのなかのセリフの漢字には、ふりがなのルビ(小活字)がついていた。

 例えば、田河水泡の『のらくろ』の講談社の単行本シリーズの復刻版を手にしてみればわかるが、漢字にルビがついている。つまり、その頃の子どもたちは、そうしたマンガに親しむことで、まだ習っていない漢字の読みかたを、自然に学んでいったのだった。

 それは一種の教育的配慮だったろう。

 しかし、アジア太平洋戦争後の新しい国語教育の方針、新漢字、新仮名づかいの制定にともなって――かどうか、私は正確には知らないが、子ども向けのマンガの漢字のすべてに、ふりがな(ルビ)が必ずしもつくわけではなくなったようだ。

 私は、日本の子どもマンガの文字表記は、世界のマンガのなかでも独特なものだと思っている。このことが日本における物語マンガの発展にどうかかわってきたかは、実はずっと気になっていることなのだが、いま、詳しく触れるつもりはない。

 ただ、地下鉄でとなりあわせた少年が手にしていた新書版のマンガを、ちょっとのぞきこんで、私は感心した。私の子ども時代に親しんだ多くのマンガ群について思い出したし、それがいまも試みられていることに、共感を覚えたのだった。

 私は次の駅で降りなければならなかったので、そのマンガのタイトルを男の子に確認してみる余裕はなかった。ただ、本の背表紙をちらっと見て、そこに〈罪〉という字があるのを記憶にとどめ、地下鉄を降りる。

 そして、本屋をのぞいてみて、ああ、これにちがいないと私が手にとったのは鈴木央というマンガ家による『七つの大罪』(講談社・『週刊少年マガジン』連載)の新書版だった。

 すでに8冊ほど刊行されているなかの第1巻を買って読む。

 なかなかおもしろい。そして、ふきだしのなかの漢字のすべてに、ふりがながついていて、そのおかげで多少難しい漢字も自由に使うことができており、セリフがはずんでいる。

 いま日本のマンガ週刊誌には、『週刊少年サンデー』など子ども向けのものにはルビがついていて、それが青年誌などとは違った作品の雰囲気を作っているようだ。少なくとも、この『七つの大罪』という作品には、ルビの効果がうまく出ていて、読みやすいだけでなく、ことばの意味を重層的に感じることができる。作者のマンガ家たちは、ルビをつけることをどのようにとらえているか、知りたいものだ。

 というのは、私が成城学園小学校のクラスメート、秋田くんの父親から借りてむさぼり読んだ黒岩涙香の本は、総ルビ式で文字が印刷され、すらすら読むことができたからだ。

 その涙香全集は縮刷版で、現在の新書版ほどの大きさに活字は少し大きく、ルビがついても読みやすかった。

 といっても、涙香のものをすべて読んだわけではない。『死美人』『幽霊塔』『白髪鬼』といった本もあったはずだが、タイトルだけでいかにも怖そうで、私は手を出さなかった。最も著名な『巌窟王』『鉄仮面』に夢中になった私が、次に読んだのが『破天荒』という小説だった。

 これは実は宇宙旅行の冒険長編小説の翻訳で、原作はイギリスの作家ジョージ・グリフィスによる小説『A Honeymoon in Space』(1901)だと調べてもらってわかったが、私は作者名などすっかり忘れていたのだった。若いカップルが月世界や火星へ行く内容で、異星の風景描写がきらびやかだったのが記憶に残っている。もしいま読み返してみるとどんな印象になるかわからないが、ともかく先駆的な宇宙SFの一冊である。

 涙香の訳したSFには、何年か後に『宝石』という推理小説雑誌に再録された『暗黒星』という短編があり、私はその掲載号を買ったはずだから、家のどこかにあるだろう。これも、その原作者名は忘れてしまった。黒岩涙香の本は、ともかくすべて涙香独自の文章で読者をとりこにしてしまうのだった。

 長編『破天荒』について言えば、いろいろな惑星のイメージが花火のようにきらめいて、SFとしては例えばH・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌの作品ほどの物語の魅力と深さには欠けていたにちがいない。だが私は、この本に触れることで〈破天荒〉という小学三・四年生にとっては難しかったであろうことば(いままで人がなし得なかったことを初めて行う――という意味)を知ったのだった。

 黒岩涙香の総ルビ式翻案小説を読むことで、私は、難しい日本語の表現を、どんどん吸収していった。それは、知的な興奮を小学生に与えてくれたと言っていい。

 さらに次の段階として、私はSFを耳できくことになった。





*第54回は6/14(金)更新予定です。