2014年5月23日

第52回 『鉄仮面』と『巌窟王』を読む

下北沢に住む同級生の秋田君の家に、しばしば遊びに行ったのは、彼の家の広い庭の芝生が青あおと見事だったり、となりに住むアメリカ人一家への関心のためだけではない。

 なによりも、彼の父親の蔵書がすばらしかった。

 秋田君の父は、もの静かな人で、最初にお会いしてあいさつをしたときも、ちょっとしゃべられただけだった。

 どんな仕事をされていたかたなのか、いまだに知らないし、秋田君にたずねたことも特になかったのではないか。

 しかし、穏やかな紳士であるその人の書斎にはいったときには、目を見張った。書棚にずらりと本がならんでいる。それだけですごいと思った。

 そのなかに、戦前の黒岩涙香(くろいわるいこう)全集がそろっていた。

 なんといっても涙香は、アレクサンドル・デュマの長編『モンテ・クリスト伯』を、『巌窟王』というタイトルで翻訳(翻案)し、新聞に連載し、熱狂的な読者を獲得した人である。また、ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』(哀れな人びと)を、『噫(ああ)無情』の題名で翻訳連載した。いまでも『レ・ミゼラブル』と言えば『ああ無情』として知る人は少なくないのではないか。

 もちろん、涙香の訳書はおとな向きの長編小説なのだが、戦前刊行の多くの本と同様、<総ルビ>と言って、すべての漢字にひらがなのふりがながついている。つまり、小学生でも読めるのだ。

 私はすぐに、フランスの作家ボアゴベの小説『鉄仮面』の涙香訳を、秋田君のお父さんに頼んで借りた。

 日本では『鉄仮面』として親しまれてきたこの作品は、『サン・マール氏の二羽のつぐみ』というのが原題である。これは囚人をとりしきる監獄の責任者であるマール氏が担当している仮面の囚人ふたりを指し、それがタイトルになっているのだが、涙香は、これを『鉄仮面』と訳出し、人気を呼んだということは、ずっと後になって知った。

 総ルビ500ページの涙香の『鉄仮面』を読みだすと、やめられなくなった。こんな怖い物語は読んだことがないと思った。河に落とされ、死んだと思われた悪人が、生き返って顔を隠して出てくるのである。ほんとうは死んでいなくて、顔をネズミにかじられて皮膚がほとんどなくなっている状態で息を吹きかえした――というその男が出てくる場面がとても怖い。

 小学校の国語の時間に読書の感想を書くことがあって、それに『鉄仮面』が、どんなに怖かったかを記したことを覚えている。しかし、物語はあまりにもおもしろくて、怖くても読むのをやめることはできない。

 戦前から戦後にかけて刊行された講談社の子ども向けの世界名作全集には、江戸川乱歩訳の『鉄仮面』がはいっているが、これは黒岩涙香訳の「鉄仮面」を、うんと省略して子ども向けに書き直したものである。私はそれも読んだが、最後の場面が涙香版と同じであった。

 黒岩涙香は、『鉄仮面』の結末を原作から変えて、一種のハッピーエンドにしており、乱歩版もそうしている。私は涙香訳を夢中になって読んだが、ことによったらボアゴベの『鉄仮面』が、世界の名作のひとつのような扱いを受けたのは、日本独特の現象だったのかもしれない。

 1980年代になってから、ボアゴベの原作を忠実に訳した『鉄仮面』(長島良三訳)が講談社からようやく全三冊で刊行された。これはいま文庫版にもなっているが、それを読むと、この小説のほんとうのおもしろさを味わうことができるだろう。

 『鉄仮面』のあと、私は秋田君の家で、『巌窟王』(上下2巻)を借りた。涙香訳のなかでも最も有名な作品で、物語や設定などすべてアレクサンドル・デュマの原作のままだが、人物名を日本人の名にしてある。それは『鉄仮面』の場合も同じで、そうした手法も日本の読者に喜ばれたのだが、これは涙香のみごとなアイデアと言っていい。

 『モンテ・クリスト伯』の主人公エドモン・ダンテスは団友太郎、悪人ダングラールは段倉といったぐあい。巌窟王となった主人公が、自分の恩人の死について聞く場面がある。「そうですか。彼は亡くなる間際に、団友太郎といいましたか」と言って巌窟王が涙を流す上巻の最後のところで、私も涙が出そうになった。

 やはりずっと後になって、私は『モンテ・クリスト伯』の山内義雄による完訳を読むのだが、改めてこの小説はまちがいなく世界の名作だと感じた。

 手塚治虫は『モンテ・クリスト伯』をどの版で読んだのか? 涙香版か講談社の世界名作全集か――手塚治虫の『新世界ルルー』が、『漫画と讀物』という月刊誌に連載が始まると、ああ、これは手塚版のSF『巌窟王』だと、すぐ熱中し、ドン・ナ・モンデスというキャラクターに団友太郎の姿を重ねたものだ。

 『巌窟王』の圧倒的な成功を受け、涙香はその続編である『後の巌窟王』という物語(ダンテスに復讐された連中が結束して復讐の復讐をする内容)を原作とは関係なく作り、新聞に連載したが、「あれはまったくおもしろくなかったよ」と、私の父の友人であった作家の玉川一郎氏が、私に言ったことがある。

 しかし、黒岩涙香全集のなかには、海外SFの翻案のような長編も含まれていた。





*来週はお休みです。第53回は6/6(金)更新予定です。