2014年9月5日

第65回 きれいな看護婦さんのいる医院

 「いまのボールだよな。ストライクじゃないよ」

 小学校のクラスでいちばん背の高い生徒が、校庭で野球のまねをしているのを、私も仲間たちも見ている。

 「次もボールだよな」と言って、彼はバットを振らない。そして来たボールはみなストライクで三振してしまう――長身の彼はそのしぐさをして私を見る。「小野だよ」みなが笑う。

 つまり私は、野球の試合ではボールが来ない外野の守備につき、バッターとして打順が来ると、投げられてくるボールが怖くてバットを振れないのだ。それでたまにはフォア・ボールになることもあるが、たいてい三振する。そうかと思うと捕手がボールを後逸して「小野、走れ、振り逃げだ」と仲間に言われ、あわてて走ることもあった。私は野球の「振り逃げ」とはなにか知らなかった。塁に出たら出たで、走らなくてはならないので、それもいやだった。

 つまり、団体競技であっても、野球は個人の技術がはっきりわかるので、ごまかしがきかない。そういうスポーツは逃げ場がないので困ってしまう。

 反対に好きな遊びは「缶けり」だった。

 缶詰の空き缶を置いて、鬼がいくつか数えるあいだにみんな逃げて隠れる。鬼が隠れている仲間を見つけていくのだが、隙を見て誰かが出ていって缶をけってしまうと、見つかった者もまた逃げてしまい、鬼が困る。私は、鬼の隙を見て飛び出し、缶をけるのが得意だった。ちょっとスリルもある。クラスでは、缶けりが流行し、休み時間になると、すぐ缶けりをした時期がある。

 私には運動神経がにぶいという自覚があって、そのことをいつも恥ずかしいと思っていた。からだが弱いと母は思っていたようだ。小学校低学年のときは、特に病気というわけではないが、母は私を定期的に医者に通わせた。

 私の家から小田急線の線路を渡って、戦争で空襲を受けなかった北沢の地区に、その医院はあった。坂道に面した立派な建物で、石の階段を登り、木々の繁る庭をぬけて医院の建物がある。

 その塩谷内科医院の塩谷先生は、口ひげを生やしたやさしい先生だった。

 思い出すのは、「これを毎日大さじに一杯ずつ飲みなさい」と先生に渡された肝油のびんのことだ。

 肝油といっても、いま薬局で手に入る透明で洗練されたものではない。やや大きなびんに、どろっとしたうす茶色っぽい液体が入っていて、いかにもタラの油そのままという匂いがした。びんにはなんのラベルも貼っていないし、コルクのせんがしてあるだけ。

 それから毎日、大さじ一杯ずつその肝油を飲むようになった。母は「よく飲んだわね」と言って、なにかお菓子をくれた。私はその生臭い肝油を、別においしいとは思わないが、特にまずいとは感じないで飲んでいた。ずっと後に、市販の肝油を買って飲んだこともあるが、臭味もなにもなくきれいに透明で、「これが肝油か?」と疑問を持ったほどだった。あのなんの加工もしていないような肝油の味を、いまでもなつかしく思いだす。

 そのびんの肝油を飲んだことで、たぶん私のからだは良くなったのだろう。塩谷先生から肝油のびんをもらったのは、その一度だけだった。

 しかし、塩谷医院には、週に一回は通っていた。紫外線を浴びるためだった。

 それは先生ではなく、助手の看護婦さんの仕事だった。私は治療室に入り、「上半身を脱いでね」と言われ、シャツを脱ぐ。看護婦さんは私の前に座り、紫外線放射器を私の胸に向けて、スイッチを入れる。はじめ、ブーンという音がして、なにか特別な匂いがする。それは紫外線の匂いだった。

 看護婦さんは、その照射器を私に30分間向けている。

 そのあいだ、私はとても恥ずかしかった。なにか話さないといけない気がするが、うまく口がきけない。

 その助手の女性は、丸顔で色が白く、とてもきれいなひとだった。誰が見ても美女だと思うだろう。でも親しみやすい顔で、私に気をつかって、いろいろ話してくれる。

 紫外線照射器を彼女が手に持っていてくれる30分間は、照れくさくもあったが、優雅な時間だった。毎週、紫外線照射のため塩谷先生のところに通うのを、私はひそかに楽しみにしていた。

 あるとき道で、彼女に会ったことがある。「耕世ちゃん、歩くの速いのね」と、あとでそのときのことを言われた。私は、子どもの頃から、速く歩くのが好きだった。

 塩谷先生は、内科に関して言えば、わが家の主治医のようだった。子どもが熱を出して寝込むと、先生はいつも往診してくださった。

 なんの病気だったか、私が40度の熱を出したことがある。そのとき、母が私を見て、変な顔をした。後で聞くと、私はなにかうわごとを言ったので、びっくりしたのだという。自分ではまったく覚えがなく、ただ母のびっくりした心配そうな顔だけを記憶している。40度の熱を出したのは、そのときが初めてだが、これほどの高熱だと、子どもの患者は異常な言動をするようになるのだった。

 母が亡くなる1972年まで、私の家は先生が主治医だった。





*第66回は9/12(金)更新予定です。


■新刊情報■ 

今なお世界中の読者とクリエイターに衝撃を与え続ける
初期新聞漫画の傑作が、小野耕世氏の翻訳でついに登場!

「ウィンザー・マッケイは、『リトル・ニモ』のなかで、ありとあらゆる
コミック・ストリップの技法上の実験を、早くもやってしまったのだ。
(中略)彼は、コミック・ストリップを発見した、というより
ほとんど発明したといってもいいだろう」(訳者解説より)



ウィンザー・マッケイ[著]/小野耕世[訳]

大型本(347×265㎜)・上製・448頁(予定)・本文4C

定価:6,000円+税
ISBN 978-4-7968-7504-2
小学館集英社プロダクション
 

好評発売中!!