いま思い出すのだが、石川の家に疎開したとき、母が最初にしたことは、印鑑(ハンコ)を作ることだった。
なにしろ、ほとんど着の身、着のままで空襲を受けた東京から疎開してきたので、印鑑もなかったのだ。それでは指扇(さしおうぎ)の村役場に、転居についてのいろいろな書類を書くのに困るし、なにしろハンコがないとなにも始まらない。
疎開さきに、子ども向きのオモチャ、というかコリントゲームのような遊び道具を、さきに送ってあったようだ。それは、父がインドネシアのオモチャ屋で買って日本に送ってきたものだったのではないか。
そうしたオモチャの一種に、積み木の一部のような彩色された木でできた、小さな円筒形のものがあった。
それに母は、ナイフか彫刻刀のようなもので、小野の字をカタカナで彫ったのである。オノと彫ったそれで、役場などで通用した。ありふれた姓のハンコなら、いまでは文具店ですぐに買えるが、そんな店などなかった。
というよりも、いわゆるお店があるような場所に行くには、ずいぶん歩かなくてはならなかった。
いちばん近い町は、平方(ひらかた)だった。なにか買いものをする必要があって、平方まで何回か母子3人で歩いていったことがある。子どもには、それが楽しみだった。
埼玉県の農業地だったから、疎開さきに空襲はなかったけれど、まだ戦争中だったことを覚えているのは、兵隊の行進を見たからである。
枚方の通りの四つ角にある雑貨屋のあたりにいると、兵隊たちが列を作って私の左手のほうから近づいてくるのが見えた。私たちは、行軍のじゃまにならないように店のなかにはいって、兵隊たちが通りすぎるのを待った。
私たちの前を、兵隊たちが姿勢を正して歩いていく……。
そのとき、兵のひとりが、さっと隊列から離れると、雑貨屋にとびこみ「箸をくれ」と言った。店主が急いで箸をとりだして渡すと、その兵隊はそそくさと代金を払い、あわてて隊列に戻り、もとの列のなかの場所にはいり、なにごともなかったように前を向いて行進していった。
いかめしく脇目もふらずに行進していた兵士たちのひとりのあわてたような行動を、5歳の子どもの私は、あっけにとられたように見ていた。隊列は次第に小さく遠ざかっていく……。
ずっと後になって、つまり私が成長して、日本の軍隊についての本、例えば野間宏の小説『真空地帯』を読み、その映画をクラス全員で先生に引率されて見に行ったのは、戦争が終わり、中学生になってからだった。
そのときになって私は、日本陸軍の内幕を知った。例えば、兵隊が所持品のなにかを失くすと、上官からひどい罰を受けるということなど。だが、要領のいい兵隊は、他人のものをくすねたりして、持ちもの検査のときに数をそろえていたという。つまり、員数(いんずう)を合わせておけばいいのだ。
おそらく枚方を行進していたその若い兵隊は、自分の持っていた箸を失くしたのではないか。それで行軍中に雑貨屋を見つけ、急いで箸を買ったのではなかったか。とにかく検査のとき所持品の数さえ合っていれば、なんとかなるからだ……。私は後に、枚方の町での体験について、そのように考えるようになった。
ともかくそれが、私が兵隊の行進というものを見た唯一の機会である。
疎開さきでの戦時体験は、もうひとつある。
いなかでの生活で、私は道ばたのオオバコという草のほか、畑に育つ野菜の葉は、すべて識別できるようになっていた。ニンジン、ジャガイモ、サツマイモ……そのほかの葉の形は、そのころに目に焼きついているので、東京に戻り、おとなになったいまでも忘れることはない。
そして、水滴をたくわえた大きなサトイモの葉――それらは青あおと繁り、夏の陽ざしのなかで地表をおおって見えた。
ある晴れた日の午後、私がそうした風景のなかに立っていると、青空に飛行機が見えた。それは、後になって機種を知ることになるのだが、アメリカのグラマン戦闘機だった。そして以下のことは夢のなかの出来事だったと思いたいのだが、それにしては、あまりにはっきりしている。
一機だけいなかの畑のうえを飛んでいたその飛行機が、機銃掃射を始めたのだ。
私は大きなサトイモの葉のなかに隠れた。銃弾は私から離れた場所に当たり、そのまま飛行機は飛び去った。
東京での空襲のときと同様、私は恐怖をことさらには感じなかった。サトイモの大きな葉の下から立ちあがったとき、青空にはなにもなかった。
本当の出来事だったのか――と、いまでも私は思うことがある。しかし、機銃掃射などという概念を持っていなかった子どもの私が、そんな夢を見るだろうか。
これも後になって、例えば作家の有馬頼親氏が、あるエッセイのなかで、戦争末期にグラマン機の機銃掃射から走って逃げた体験を書かれているのを読み、こうしたことがあちこちであったことを知った。グラマンは日本の上空で、しばしばそんなふうに遊んでいたのである。
*第16回は8/30(金)更新予定です。