疎開さきで、まだ戦争が続いている数か月のあいだ、私はどのようにして日々をすごしていたのだろうか。
母が竹の棒のさきに、細い竹を丸くして、それに布の袋を作って縫いつけてくれた。捕虫網である。それを持って私は夏の昼さがり、チョウやトンボを追って遊んでいた。
ほとんどほかに遊び道具はなかったと思う。
いや、もうひとつの楽しみは、母子で平方(ひらかた)の町に買物に行くことだった。
そこには文房具屋があり、画用紙などいろいろなものを売っていたが、私のいちばん好きなのは、方眼紙だった。
少し厚い紙に、青色で1ミリはばの線がたてよこ一面に印刷されている。1センチ四方単位で、大きさがわかる。
私はこの用紙を使って、さまざまなものを作る工作が大好きだった。
それで自動車を設計して作る。
男の子は、ボール紙を切って自動車など、ごくかんたんなメカ類を作ることに興味を持つ。私もそうだった。しかしたいていの子どもは、ただ四角い立方体を作り、それに丸く切った紙の車輪をくっつけて自動車だと言う。
私は、それには満足しなかった。
自動車のボディは単純な四角ではない。エンジンを収めた前の部分は、さきのほうがせばまっていて、車輪をおおうカバーがついている。そういうふうに私は、紙の自動車を作ってみたかった。
それには、方眼紙にエンピツで一種の設計図を書いて、のりしろも計算して切り抜き、のりをつけて組みたてればいいのである。
私がそのように工夫して、方眼紙を利用した自動車を作ると、母は感心してくれた。
そんなふうに自動車を作る子どもは、まわりにいなかったからだ。こういう知的な遊びが私は好きで、方眼紙を与えられると、それを使っていろいろなものを工作しながら、時間の経つのを忘れてしまうのだった。
ところで、子どもたちは当然ながら、いなかで暮していくうえでの経済的な問題には、まったく気づいていなかった。
母はいったい、どうして生活費を得ていたのだろうか――それは、あとになって知った。
母は、女子美術大学を卒業していたから、油絵を描くことができた。それで疎開さきの石川の家の近所の女性たちに頼まれて、その帯(おび)に、例えばバラの花などを描き、お米などを得ていたのである。
女の人たちは帯を締めて母のところに来るか、あるいは母がその家に油絵の道具一式を持って出かけ、女性の締めている帯に、花の絵を描くのだった。つまり、芸が身を助けたのである。
黒地の帯に、母がバラの花を描いたのを私は見たおぼえがあるが、それは美しいものだった。帯はとてもしゃれていて、女性たちは喜んだ。
そのほかにも、母はなにかつくろいものなどの仕事をしていたかもしれない。
5歳の私も3歳の弟も男の子というだけあって、ずいぶん食欲があったようだ。
「寧子さん、たいへんね」と、石川すえさんは、母に言っていたそうだ。いくらご飯をたいても、子どもたちがすぐ食べてしまうからだ。
といっても、お米などなかなか手にはいるわけではなく、イモ類はもちろん、いろいろなものを食べていた。
いちばん印象に残っているのは、雑穀のコーリャンをたいたご飯を食べたときのことである。
コーリャンをたくと、おかまのなかは赤(あか)のご飯(赤飯ではなく、ふつうのお米にアズキをたきこんだご飯)のように、美しい紅色になる。ほんとうの赤飯はもち米を使うが、もち米など手にはいらない戦時中は、疎開する前にも、よく〈赤のご飯〉を母がたいてくれたものである。
見た目にはとてもおいしそうで、たしかに温かいうちはおいしかった。しかし冷えたコーリャンのたきこみご飯は、まったくおいしくなかった。
後に映画評論家になってから、『紅いコーリャン』(1987)というチャン・イーモウ監督による中国映画の中で、スクリーンにひろがる一面のコーリャン畑を見たとき、疎開さきで食べたコーリャンご飯を思い出した。コーリャンのご飯を食べたのは、このときだけである。
そうした食糧事情のときでも、なにか必要があって村の別の家を訪ねると、縁側で話しこむ母と子どもの私たちに対して、いつもうつわに山盛りの野菜の漬けものが出るのだった。
村では訪問者があると、必ず食べきれない量の漬けものが出る。そうしないと、あの家はケチだ――と言われてしまうから、と聞いたことがあるけれど、そういう習慣だったのか。もちろん、出された漬けものの、ほんの一部しか食べることはないのだが、それがひとつのしきたりだったのだろう。
そして夏のある暑い日、捕虫網を手にしてチョウを追っていた私が、たぶん麦わら帽子をかぶって外から帰って来ると、いつも石川きよさんがいる広い部屋で、おとなたちが並んですわっているのが見えた。
石川きよさんや、私の母、それに近所の人たちが集まっていた。彼らはラジオを聴いているのだった。
私には、いったいなにが起こっているのかわからず、庭に立ったまま、おとなたちの静かな姿を見ていた。
1945年8月15日の昼のことで、おとなたちは、天皇による終戦のことばをラジオで聴いていたのだと、あとでわかった。
私たちは戦争が終わったことを、セミの鳴き声がする疎開さきで知ったのである。
おとなたちは、ラジオをききながらすすり泣いていたのだろうが、子どもにはその実感はなかった。
空は青く、畑は青あおとしていた。
アメリカのグラマン機が、無防備の日本の空を飛ぶことは、もうなくなったのだった。
母は、父が戦地から生きて帰ってくることだけを願っていたにちがいない。
*第17回は9/6(金)更新予定です。