2013年5月17日

第3回 光が降ってくる部屋

 1943~1944年ごろの私の家には、母と弟と住みこみのアキヤと私の4人が住んでいて、父はいなかった。

 父は画家(小野佐世男)だったが、1943年1月1日付で、日本の帝国陸軍の報道班員として徴用され(徴兵ではなく、軍属として従軍する)、ジャワ作戦に従軍しインドネシアにいたのだった。そんなことは明白には後になって知ったことで、幼児の私は、おぼろげに父は絵を描く人だということくらいしか意識していなかったのではないかと思う。
 
 父の記憶はまったくなかったのだが、父の存在を知ってはいたのは、彼のアトリエがあったからだ。私の住んでいたのは日本家屋だったが、敷地には西洋建築のアトリエが別棟としてあった。後に父の文章などを目にして知ったのだが、それは40畳の広さを持つ画室で、天井がガラス張りのスペイン式の建てものだった。

 幼児のとき、私は何度かそのアトリエをのぞいていた。子どもの目からは、天井がおそろしく高く感じられた。ガラス張りといっても、もちろん一枚の大きな透明ガラスではなく、フレームで仕切られていた厚いガラスだったにちがいない。そこから降りそそぐ陽光は美しかった。






 40畳のアトリエには、6つほどのテーブル(仕事机)が並べられていたが、そのすべてに白い布がかぶせられていた。それぞれのテーブルには、置いてある筆たてや、さまざまな画材、絵具類やスケッチブック類、絵具の残っているパレットなど、ともかく絵(とりわけ油絵)を描くうえで必要なものがそろっていて、それにほこりがつかないように白い布がかけられていた。

 私は布をちょっと持ちあげて、その下にあるものをのぞいた。そのテーブルも、幼児の私には、高い位置にあったように感じたのだから、アトリエの少なくとも壁の2面に作られていた書棚が、ずいぶん高くまで(天井へと)伸びているような印象があった。

 書棚は本がびっしりならんでいて、絵本のようなものがあったような気もするが、手が届く高さではなかった。日本や海外のアーティストたちの画集とか、さまざまな本があったはずだ。そして、イーゼルがいくつも立てかけられていた。

 つまりこのアトリエは、父が出征(戦争に従軍)したときの状態のまま、保存されていたのだった。父が復員(帰国)したら、すぐにまた使えるように母は注意していたので、白い布がかけられているとはいえ、掃除をおこたらなかった。

 ずっと後に、手塚治虫のマンガ『ロストワールド』を読んだとき、ガラス屋敷と呼ばれる全体がガラス張りの科学研究所が描かれていた。父のガラス天井のアトリエとは比べものにならない大規模なもので、すばらしいとわくわくしたが、父のアトリエを、ちょっと思い出したのかもしれない。

手塚治虫『ロストワールド』(講談社)

 アトリエに続く場所(画室の入口のドア)の横にはピアノがあり、そのピアノの上の壁に、ピストルが飾られていたのを、私はまぼろしのように思い出す。もちろん実弾ははいっていなかったろうが、そのしゃれた飾りが彫られたピストルは、模型ではなくほんものだったのではないだろうか。ヨーロッパ製(それともアメリカ製だったか)の銃だったような印象がある。

 そのピアノの間に続いて、大広間があったのだが、その思い出ははっきりしない。とにかく、この世田谷の家が(アトリエと共に)建てられたのが1928年、父が上野の美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科の4年(当時の芸大は5年制)のときだということも、ようやくここ一、二年のあいだに私は知ったのである。

 その前は、父の家は小石川区(文京区)の大塚にあった。だから私が生まれたのは父が世田谷の家に移ってからだが、私の本籍は、まだ大塚にある。

 父が美術学校の卒業制作として、70号の大きさの油絵を描いたのも、このアトリエであることがわかっている。『レヴュー』(La Levue)という踊り子の絵を描くために、父はふたりの女性をモデルとして傭った。

 アトリエに続く広間では、しばしば友人たちを招いてパーティなどを開いていたこともわかっている。そうした時代を知っている人たちも、もうほとんどいないのだが、ひとりこのアトリエを記憶している人に私は会っている。

 インドネシアに父といっしょに従軍した河野鷹思(1906-1999)というデザイナーがいる。その末娘のすみれさんもアーティストで、スイスの画家と結婚して、いまスイスに住まわれている。ときどき日本に帰ってこられるすみれさんに、私は東京・青山の河野家のスタジオ(画廊)で、何度かお会いしているが、「戦前、あなたのお父さまのアトリエを訪ねたことがあるわよ。すてきなところだったわねえ。あなたのお母さまにもお会いしたわ。男の子を抱いていらしたから、それがきっとあなたね」

 デザイナーの河野鷹思氏は、父と共に日本の1945年の日本の敗戦まで、つまり最後までインドネシアに残っていた陸軍報道班員のアーティストであった。




*第4回は5/24(金)更新予定です。