2013年7月5日

第8回 家が焼ける

 B29爆撃機の編隊が、軍事工場だけでなく、一般市民(非戦闘員)が住む住宅地に落としていたのは、焼夷弾と呼ばれるものだった。

 東京で、その最大の被害を受けたのは、1945年3月10日の江東区への空襲で、後に知ったのだが、10万人が亡くなるという大惨事だった。そして、私が住んでいる東京・世田谷の空襲は、5月25日に行われた。

 その夜、私たちは家のなかにいた。母は活動的なモンペ姿で、母も弟も私も防空頭巾をかぶり、靴をはいて、いつでも外に出られるかっこうで、ふとんをしいて、そこにすわっていた。

 灯火管制で家のなかを暗くしているなか、B29爆撃機の編隊が空を近づいてくる爆音がきこえていた。

 そしていきなり、寝室のとなりの母の部屋にある鏡台の鏡が砕ける音がした。焼夷弾が屋根をつらぬいて落下し、母の鏡台を砕いたのだ。割れる鏡を焼夷弾の光ではっきり目にしたその瞬間、私たち母子は、雨戸を倒して庭に出て、家の外に走っていた。

 夜空を燃える筋のように焼夷弾が落ちるシュルシュルといった音がひびくなか、私たちは、同じように外にとびだした近所の人たちといっしょに走っていた。向かったのは、いまでは羽根木公園の名で知られている代田の根津山であった。それは木が繁っている場所で、前から避難場所として考えられていた地域だったのだろう。

 大勢の人たちが、市街地を抜け、森のなかを走っていた。夢中になって母から離れないように、3歳の弟と共に、五歳の私は走っていたのだが、そのとき忘れられない光景があった。

 森のなかの道を走っていた私たちの左側、木々がおおっているその下に、なにか並んで、色のついた光を吹きあげているものがある。それは、落下して地面につきささった焼夷弾が、まだくすぶっているのだった。

 爆撃機が落していった焼夷弾は、その飛行航路にそって、住宅地をすぎた場所にも落ち、地面につきささって、そこで火を吹きあげていたのである。それらは一定の距離をもって、きれいに一列にならんでいた。

 いくつあったのかは、はっきりしない。少なくとも10個以上はあったろう。走る私の横につきささった焼夷弾から吹きあがる火の粉は、1回ではなく少なくとも2回かそれ以上吹きあがり、そのたびに黄色だったり赤かったり、いや、緑色だったかもしれないが、花火のように色が変わって、きれいだった。それは一種の鉄の筒で、そこから火が間欠温泉のように吹きあがっている。

 必死になって、母親に手をひかれるように走っているにもかかわらず、それを私は、なんてきれいなんだろうと思って見ていたことをいまだに忘れない。

 それは、子どもにとっての恐怖体験のさなかであったにもかかわらず、そう感じてしまう私がいたことになる。いや、子どもだからこそ、その一瞬のながめを美しいと思ったのかもしれない。見ているうちに焼夷弾は、光の粉を吹きあげて、やがて沈黙してしまう。ただの鉄の筒のはじだけが、あたかもタケノコのように、地面から生えていたような印象……。短い、一瞬の光景だったはずなのに、記憶としては、かなり長いあいだその花火に見とれていたような気がする……。それは、私がこれまでの生涯で見た、最も美しい眺めのひとつである。


 そして私たちは、森のなかにあるので空襲を受けていない家にたどりつく。二階建てのかなり大きな家で、その家の奥さんは、避難してきた私たちを受けいれてくれた。

 私たちは二階にあげてもらい、その日本家屋の部屋にははいりきれず、二階の廊下や階段で、多くの人たちが一夜をすごした。眠れたかどうかは覚えていない。私たちを泊めてくれたこの家の主人の名を、私は忘れているが、母はもちろん、弟は覚えていた。その名を確認したいところだが、母はとうに亡くなっているし、弟も2年と少し前に死んだので、残念ながら、名前を記すことができない。

 翌朝早く、避難した人たちは、みな自分の家のある場所に戻ったのだが、私の家はきれいに焼けていた。あたり一面が、焼けていた。焼けなかった近所の人たちが、たきだしをしてくれて、白い金だらいいっぱいにたいてあるごはんに、しょう油をかけたものを、私たちは、わけあって食べた。




*第9回は7/12(金)更新予定です。