2013年7月12日

第9回 焼け跡に立って

 戦争による空襲を受けて家を焼失し、その焼け跡に立ったときの気持は、それを体験した者でなければわからないだろう。

 ずっと後、私がおとなになってから、焼け跡が描かれた映画を見たり、マンガを読むようになってからも、その描写には違和感を覚えるものが少なくなかった。そのなかで、最も正確だと思ったのは、手塚治虫が1950年代に月刊誌『おもしろブック』に連載していた長編マンガ『地球大戦』のなかの一場面だった。



 『地球大戦』は、いかにも手塚治虫らしい近未来SFといった設定だが、どのくらいの近未来かはわからない。ドン太郎という日本少年が世界をかけめぐるのだが、地球は異星人の侵略を受けており、異星人のコントロールを受けたある大国が別の大国と戦争中で、日本もそれに巻きこまれている――という内容だったと思う。「思う」というのは、手塚治虫作品らしく、〈革命〉がテーマのひとつになっていて、かんたんには物語を要約できないからだ。

 『おもしろブック』には、連載中の『地球大戦』が別冊付録としてつくときがあり、私はその付録を何冊か持っているが、その一冊に「東京敗れたり」という章がある。つまりここで、東京が空襲を受けたあと場面が描かれているのである。

 1928年大阪生まれ、宝塚育ちの手塚治虫は、当然のことながら戦時体験があるが、彼が知っている空襲は大阪や神戸のそれで、東京のそれではない。しかし「東京敗れたり」の章のとびら絵に相当する東京の焼け跡風景は、東京の世田谷で空襲を受けた私が見た焼け跡を思い出させるものだった。

 瓦礫のなかに、モンペ姿の女性が立っていて、それはドン太郎の母親だったろう。モンペは活動的な女性の服装で、アジア太平洋戦争の末期、日本がアメリカ軍の空襲を受けるころには、ごく一般的な女性の身なりだった。

 そして「東京敗れたり」の焼け跡風景のなかには、水道管が焼け崩れた建物の残骸のあいだに立っていた。

 そう、それこそが〈正しい焼け跡のありかた〉だと、私はその画面を見て思ったものだ。

 日本家屋は多くが木造だから、焼夷弾攻撃を受けると、たやすく燃えてしまう。電信柱もほとんど木製だから(現在のようなりっぱな柱とはちがって)、やはり燃えて電線と共に(電線をひきちぎることもあって)倒れて燃え、黒こげになってしまうことが多い。

 そうしたなかで立っているのが、金属製の水道管なのだ。私が空襲の翌日、5月26日の朝、わが家のあったところに戻ってくると、あのガラス天井のアトリエも、なにもかもが焼けてなくなってしまっていたが、そのひろびろとした見通しのいい、まだくすぶっている風景のなかで、水道管だけが立っていた。もちろん、道路ぞいに焼けた電柱もあったろうが、家の敷地のなかでは、水道管がなによりも目についた。

 近づいて蛇口をひねってみると、驚いたことに、ちゃんと水が出たのである。5歳の私は、ほこりまみれの頭を、その水道の水で洗い、蛇口に口をつけるようにして飲んだはずだ。

 水道管は地下を走っているから、焼夷弾でも壊されなかったのだろう。もちろん使いものにならなくなった水道管もあったにちがいないが、ちゃんと水が出た水道管もあったのである。

 『地球大戦』の「東京敗れたり」の章の描写は正しかったと私は思う。空襲後の風景は、基本的には大阪も東京も同じはずだったからだ。ただ、空襲下の手塚少年は、路傍で空襲を受け、焼死した人たちも見ている。また東京でも、江東区の空襲はすさまじいもので、最大の空襲被害、死者を数えている。たまたま私は、空襲での死者を目にしなかっただけなのだ。


 現在のマンガ週刊誌に少し前に連載されていた、東京の焼け跡を舞台にしたあるマンガを、私は読んでいた。焼け跡の場面がくり返しくり返し出てくるのだが、私にはちょっとなじめなかった。やたらに倒れかけた、または倒れていない電柱が描かれていたからだ。あんなに電柱が焼け跡に残っているはずがない――そう感じてしまうと、もうそれだけで物語のなかにはいっていけなくなってしまうのだった。悪い作品ではないのだが電柱が立つ道路を中心に描かれていたからだろう。

 逆に、意外なマンガのなかに戦時体験が反映されていて、「おや」と思ったことがある。

 竹宮恵子さんの代表作のひとつ『地球(テラ)へ…』を、数年前にまとめて読んだときのことだ。私はこの長編SFを、朝日ソノラマ刊行の月刊誌『マンガ少年』連載時に、毎号楽しみにしていた。




 SF少年として育った私は、1950年代から海外SFが翻訳刊行されると、むさぼり読むようになる。そして、元々社の『最新科学小説全集』の一冊として、ヴァン・ヴォークトの『新しい人類スラン』が出ると、初めて触れるミュータントという存在に魅せられた。

 竹宮恵子さんの『地球へ…』は、『スラン』の影響を受けていることが明白で、それが私には嬉しかった。

 そしてこの超未来SF長編のなかに、一種の空襲場面がある。雑誌連載時には見すごしていたのだが、角川書店版の『竹宮恵子全集』のなかで『地球へ…』全3冊を読み通したとき、その空襲シーンに、モンペ姿で防空頭巾をかぶった女性が描かれているひとコマを発見したのだった。

 『地球へ…』は、近未来ではなく超未来のはなしである。そのなかで、1940年代日本の防空ファッションが出てくるのが、私にはおもしろい。

 「あのひとコマ、とてもおもしろいですね。」と、私はそのあとで竹宮さんにお会いしたとき、たずねてみた。「竹宮さんは空襲は体験していないでしょう?」

 「そうなんですけど、当時のことはいろいろ聞いて知っています」と、竹宮さんは日本の敗戦後の子どもの頃の話をしてくださった。「あの『地球へ…』の防空頭巾の女性の場面は、ちょっと遊んだのよ」と彼女は笑った。

 たぶん、空襲など戦時の記憶のない竹宮マンガの多くの読者は、あのひとコマを特別気にはしないのではないか。しかし私は、あのちょっとしたひとコマのおかげもあって、『地球へ…』は、とりわけ親しみ深い、忘れられない作品となっているのである。





*第10回は7/19(金)更新予定です。