2013年9月20日

第19回 学校でいじめられる

 小野家の墓は東京のお寺にあるが、ひとつの家系の墓地が、お寺ではなく私有地の区画に何百年にも渡って続いてきている場所を、私は初めて見た。

 石川栄子さんは、お元気な頃は、この墓地の草とりなどに来られていたという。この日お会いした石川勝代さんは、分家のひとつに属し、分家の墓地を夫とともに管理していることになる。

 ふたつの墓所を見ているうちに、雨はあがった。突然やってきた私に親切にしてくださった勝代さんにお礼を言って、私はバス通りのそばで別れる。分家に続く稲のあいだの道は私道なのだった。分家の長屋門から、車はこの私道を通ってバス通りに出て、大宮などに行くのだろう。本家のあった場所からこのバス通りまでは百メートルほどだろうか。

 私はバス通りを渡り、もと来た道を南へ、指扇小学校の方向へ歩いていく。

 おおざっぱに計算して、本家の場所から小学校まで、およそ2キロ強だろう。1946年4月、疎開さきで国民学校に入学し6歳になっていた私は、毎日、この2キロ少しの道を通っていたことになる。途中、少し曲がっているとはいえ、おおざっぱに言えば一本道である。

 入学式の日には、母といっしょに石川栄子さんも来てくださったときくが、私は覚えていない。せいぜい着かざって行かせようと母は思ったのだろう、その日私はミドリ色のビロードのような服を着せられたことを記憶している。なぜか、そんな服を東京から持ってきていたのだろう。

 指扇の農村で、ミドリ色の服を着た男の子というのは、いかにも場ちがいだったから、村の子どもたちに奇異な目で見られたのは当然だった。東京から来た子というだけで目をつけられるのに、派手なミドリ色の服を着ていたのである。

 当然、その服に合わせて、なにか靴をはいていたはずだ。学校が始まると、配布された教科書などをいれるものが必要で、皮のランドセルなんてなかったから、合成ゴムのようなもので作られたバッグを背中に背負って学校に通った。

 都会からいなかに疎開した戦争末期の子どもたちの例にもれず、私はすぐいじめの対象になった。

 2歳年下の弟の隆史よりも「耕世さんのほうがなよなよとして見えた」と、当時の私の印象を石川栄子さんは語っているから、ますます私はいじめたくなるタイプだったのだろう。つまり、なんだかなまいきだ…と思われてしまうのだ。

 男の子たちに寄ってたかってなぐられたり、つきとばされたりした。

 つきとばされて服が汚れた私を見かねて「こっちにいらっしゃい」と職員室に連れていってくれた女の先生はやさしかった。私は自分の弁当箱を、男の子たちにメチャクチャにされたこともあったのかもしれない。

 女の先生は、自分の弁当箱をあけて「食べなさい」と言ってくれた。いま思い出すのは、弁当箱にはいっていたおかずが、ほとんど野菜だけだったことだ。先生も、いいものは食べていないんだな――と、子どもごころにも私は感じた。

 だが、いじめられるといっても、子どもの世界のことだから、そんなに陰湿なものではなかった。いじめられたかと思うと、次には仲よく遊んでいるのである。

 学校の門を出ると、そのまえは田圃だ。そのころは、アメリカザリガニが田圃に住みついていて、私たちはエビガニと呼んでいた。

 それをとる方法は、タニシを使う。田圃にはタニシがいて、エビガニがよく食べてしまう。子どもたちはタニシをとって、その殻からなか身を出し、笹竹かなにかの先につけて田圃の水のなかにいれる。すぐエビガニがハサミでつかんでくるので、すぐエビガニが釣れるのだ。

 エビガニをたくさん釣って持って帰ると、本家の人たちが炭で焼いてくれる。そのなか身を食べる。また、カエルもたくさんいたので、つかまえては解剖ごっこをするみたいないたずらもした。

 学校のなかだけでなく、帰り道でもいじめられることがあった。あるとき、田圃のあいだの道でいじめられていると、ひとりの男の子が立ちはだかって、私をかばってくれたことがある。

 「きみはぼくの親戚なんだよ」としっかりした顔つきのその男の子は言った。私は知らなかったのだが、彼の名が福永増男というのは、いまでも忘れない。

 そのことがあって、彼とよく話すようになり、彼の家にも行ったように思う。石川栄子さんにそのことを話したら「増男さんは、たしかいまお茶屋さんをやっているはずよ。住所を調べてみるわ」と電話で言われた。

 でも、栄子さんが知っていた住所には、もうその人はいなかった。だから、小学1年のときのいわば私の恩人であったその人の消息は、いまのところわからない。会いたいと思うのだが。


 指扇小学校に靴をはいて歩いていったのは、入学式の日くらいではなかったか。

 いつのまにか私は、村の子どもたちと同じに素足で通学するようになっていた。弟も同じで、日常的に外に出るときは、はだしだった。足の裏の土や草の感触になじみ、近所の子どもたちと泥まみれで遊ぶようになっていく。





*第20回は9/27(金)更新予定です。 


■講演情報■

漫画はどのようにして生まれたか 西洋と日本

[日時]2013年9月20日(金)~10月18日(金) ※毎週金曜 19:00~20:30
[場所]明治大学 中野キャンパス交流ギャラリー
講師:宮本大人、佐々木果、小野耕世
※全5回講座/定員50名/受講料8,000円

↓全5回連続講座の1回に小野耕世さんが登壇されます。

「アメリカ初期新聞漫画の世界」 講師:小野耕世

[日時]10月4日(金) 19:00~20:30
[場所]明治大学 中野キャンパス交流ギャラリー


●東京女子大学比較文化研究所主催公開講演会
『海外マンガの中の日本女性 「ヨーコ・ツノ」の場合』

[日時]2013年10月28日(月) 10:55~12:25 ※開場10:40
[場所]東京女子大学 24301教室
※申込不要/無料/定員150名