2013年9月27日

第20回 息をしちゃいけない!

 「アカイ アカイ、アサヒ アサヒ」

 小学1年の国語の教科書は、そんなふうにすべてカタカナで書かれてあった。

 それを声に出して読む。

 教科書のなかには、子どものためのおはなしが載っていた。動物たちが会話したり、子どもが出てくる内容のものがある。

 あるおはなしについて、私に親切だった女の先生が、生徒に質問した。

 「さて、このひと(それとも犬とかキツネだったかもしれない)は、なぜこんなことをしてしまったのでしょう」

 村の子どものひとりが先生に指されて答えた。

 「おったまげちゃったの」

 すると先生はほほえんで言った。「おどろいた――と言うんですよ」

 私は内心、おかしかった。

 「なるほど。驚いた、びっくりしたというのを、このあたりでは、たまげた、おったまげた、と言うのか」。女の先生は、そうした言いかたをはしたないと思って、生徒に注意したのだった。

 教科書には、墨で黒く塗りつぶした部分があった。よくわからなかったが、つまり戦時中の古い教科書をそのまま使っていたので、例えば軍国主義的な、勇ましく戦争に行く若者を讃えるような文章が載っていたとしたら、そうした部分は黒く塗りつぶしていたのである。

 初めからそうした教科書を与えられた私は、そのことに別にとまどいは感じなかった。そういうものと思って教科書を読んでいたのである。

 日本の敗戦前後では、入学の時期が1年違っただけでも子どもに与える影響に大きな違いがあることを、あとになって私は知ることになる。

 1945年8月15日より前に小学生になった子どもは、日本の軍人や戦争を讃えるような内容の教科書を与えられている。

 それが8月15日を境にして、自分たちが教わってきたことが、すべてまちがっていたと言われてしまうのだ。学校の先生が言っていたことが、この日からほとんど正反対になってしまう。しかも、教科書のそうした部分に墨を塗るように命じられ、小学生が自分で墨を塗ったというのである。

 「それはショックでしたよ。いったいなにを信じていいかわからなくなりますからね。そのことが、いまでもこころの傷(トラウマ)になっています」と、私より少し年長の知人が、戦後体験について、電話で私と話していたときに、ふと口にした。

 幸いというべきか、私にはそういう経験はない。戦前の価値観が逆転してしまった最初の年に小学生になったので、戦争の敵だったイギリスやアメリカを憎め――という教育は私には無縁のものだった。だから、アメリカのコミックスなど、なんの抵抗も無く受けいれられたのかもしれない。いや、これは少しあとの話なのだが……。

 だが、それとは別に、小学一年のときの先生は、いまでは考えられないほど厳しくもあった。算数の時間には、生徒の全員が、そろばんを持っていなくてはならなかった。

 きっと母はなんとか工面して、子どものためにそろばんを買ってくれたのだろう。私は毎日、学校にそろばんを持っていく。

 ところがある日、私はそろばんを持ってくるのを忘れてしまったのである。先生の言うことは単純だった「そろばんをとりに行ってこい」

 私は、はだしだったが、そのまま教室を出て、家(石川の本家)まで走って帰り、そろばんを持つと、また学校まで走った。往復4キロあまりを走ったことになる。

 それで先生を憎む気持ちは、まったくなかった。私が忘れたのだから「とってこい」と言われても当然だと思っていたのだ。それは、教育上の価値観が、敗戦を境にして一変してしまったこととは別のことなのだった。

 必ずしもそのせいではないだろうが、結局私は、そろばんをうまく使えないまま、大人になってしまった。私は小学生の頃から、ずっとそろばんが苦手のまま、いまに至っている。

 また、子どもというのはまじめなのだなあと、後に思い返すたびに、自分で笑ってしまう出来事もあった。

 学校での楽しみのひとつは、ときどき紙芝居を見せてくれることだった。もちろん教育的な内容の紙芝居である。

 ある日、結核についての紙芝居を先生が見せてくれた。見ていてすっかりひきこまれてしまい、とても恐かった。

 なにしろ、結核菌は空中を漂って伝染するというのである。私はびっくりしてしまった。

 その日、私は学校から帰りながら、呼吸をして、もし結核菌がからだに、肺などにはいったらどうしようと、不安でたまらなくなった。つまり、歩きながら呼吸をしたらたいへんだ――と思いこんでしまった私は、息を止めながら歩いた。もちろん、止め続けることは不可能なので、なるべく息をしないようにしながら、2キロの道をひとり歩いて帰ったのだった。

 母にその日の紙芝居のことを話し「息をしちゃいけないんだよ」と言ったら、大笑いされたものである。





*第21回は10/4(金)更新予定です。 


■講演情報■

漫画はどのようにして生まれたか 西洋と日本

[日時]2013年9月20日(金)~10月18日(金) ※毎週金曜 19:00~20:30
[場所]明治大学 中野キャンパス交流ギャラリー
講師:宮本大人、佐々木果、小野耕世
※全5回講座/定員50名/受講料8,000円

↓全5回連続講座の1回に小野耕世さんが登壇されます。

「アメリカ初期新聞漫画の世界」 講師:小野耕世

[日時]10月4日(金) 19:00~20:30
[場所]明治大学 中野キャンパス交流ギャラリー


●東京女子大学比較文化研究所主催公開講演会
『海外マンガの中の日本女性 「ヨーコ・ツノ」の場合』

[日時]2013年10月28日(月) 10:55~12:25 ※開場10:40
[場所]東京女子大学 24301教室
※申込不要/無料/定員150名