2013年10月11日

第22回 1946年の「銀河鉄道の夜」

 自伝を書いているはずが、前回は「長編」から引退する宮崎駿監督について筆が走ってしまったが、(同じジブリの高畑勲監督は宮崎氏より年長なので)宮崎氏を継ぐ若い世代の長編アニメ作家として、だれがいるだろうか。

 すぐ思い浮かぶのは『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』という秀作を続けて発表してきた細田守監督だろう。私が『おおかみこども…』に泣いてしまったのは、これが母親がおんな手ひとつで子どもを育てていく物語だったからだ。

 私も弟も、父が戦地に出かけて不在のとき(そして父の死後)母親に育てられてきたので、『おおかみこども…』には自分の子ども時代を重ねることになってしまう。



 それで、疎開さきの小学校での日々について、もう少し述べてみたい。

 私は、絵を描くのが好きだった。小学校でも絵を描く時間は楽しい思い出になっている。私は汽車を描くのが好きで、あるとき夜汽車の絵をクレヨンで描いた。

 蒸気機関車が列車を引いて走っている夜の風景だ。空には月と星があり、地上では機関車のあかりが夜を裂くように走り、煙突はけむりを吐いている。列車の四角い窓は、黄色くあかりが点いて並んでいる…。

 私が宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読むのは東京へ戻ってからの、小学校4年ごろだったから、この頃はまだ読んでいない。それでも夜汽車のながめが好きだった。列車の窓のなかに、それぞれ人がいるのだと空想するのが楽しかった。

 疎開してきた私にいろいろ気づかいを示してくれた女の先生は、その絵がとても気にいったようだった。

 「ごめんなさい」少したって先生は私にあやまった。「あの絵、うっかりして失くしてしまったのよ。もう一度、描いてくれないかしら」

 先生は、あの絵を小学生の絵のコンクールかなにか(そんなものが敗戦の翌年、すでにあったのかどうか知らないが)に出そうと思っていたのか、少なくとも自分で持っていたかったのだろう。

 お安いご用だと、私は同じ絵をもう一度描いた。しかし、こうした点が私の愚かなところなのだが、もっとうまく描こうと思って、夜汽車の窓のあかりに黄色だけでなく、ちょっとオレンジ色を混ぜてみたり、少し工夫してみた。

 「前の絵のほうが良かったわね」

 と女の先生は言った。「前の絵の黄色のほうが良かったわ」

 今なら先生の正しさがよくわかる。黄色にちょっと白を混ぜた最初の電気のあかりのほうがずっと純粋な光という感じがしたはずだ。描き直した絵には、なにか最初の純度が失われてしまっていたのである。

 また秋になると、先生は「落ち葉をひろっていらっしゃい。それを貼りあわせて絵を作るのよ」と、生徒たちに言った。

 翌朝学校へ行く途中、私は大きな色とりどりの落ち葉が散らばっている場所を通りかかった。そんなに美しい落ち葉を見たのは生まれて初めてだったし、その後も見ていない。

 それをひろえるだけひろい、学校に行った。生徒たちは、みななにか持ってきていたが、私が見つけたようなきれいな落葉を持ってきた者はひとりもいなかった。

 大きな画用紙の上に、さまざまな色あいで紅葉化した葉をならべ、それが花びらのようになって、ひとつの花の姿になる。花の中心にも、私は落ち葉のひとつをハサミで丸く切って貼った。

 「あ、葉を丸く切らないで、小さい葉をそのままで置いたほうがいいわ」

 と、私のやりかたを見ていた女の先生は言った。でも私は、落葉を丸く切って使った。

 「がんこなのね」

 と先生が言ったのを忘れない。せっかく自然の小さい葉があるのだから、丸く切らないほうがいいにきまっているとは、後になってわかったことだった。その頃の私は、自然のままを生かしたほうがしゃれている――と気づかなかったのだ。つまり、子どもだったのである。

 だが、ともかく、先生は私の絵を評価していたことになる。ただ、自分ではそうした自覚はなかった。先生が私の絵を失くしたことでも、まったく怒る気はなかった。たいしたものじゃないと思っていたのだろう。

 いま思い出せるのは、夜汽車の絵と落葉の貼絵のことで、きっと他にもいろいろな絵を描いて遊んでいたのだろうが、すっかり忘れてしまっている。

 ことしの8月、疎開さきを訪ねたとき、あの美しい落ち葉をひろった場所を探してみたが、もちろん当時の林のあったあたりは住宅地になっていて、かつてのおもかげはなかった。






*第23回は10/18(金)更新予定です。 


■講演情報■

●東京女子大学比較文化研究所主催公開講演会
『海外マンガの中の日本女性 「ヨーコ・ツノ」の場合』

[日時]2013年10月28日(月) 10:55~12:25 ※開場10:40
[場所]東京女子大学 24301教室
※申込不要/無料/定員150名