2014年1月17日

第34回 タンクタンクローの時代

山田洋次監督の映画『小さいおうち』には、ある時代の概念についてのステレオタイプの思考に対して、注意をうながす場面がいくつもある。

 倍賞千恵子が演じるおばあさんが、戦前のある年を追憶して、「あの頃はとても楽しかった」と回想日記に記す。すると、それを読んだ高校生は「そんなことないだろ。それは二・二六事件があった年で、日本は軍国主義が進み、中国との戦争が始まっていたんだよ。日記にウソを書いてはいけないよ」と、おばあさんをさとす。

 「いいえ、私はウソは書きませんよ」と老女は言い張る。たしかに二・二六事件があった年だが、そのころ私の父、画家の小野佐世男は、元気なモダン・ガールたちの絵を新聞・雑誌に描きまくっていた。

 2012年10月から2013年1月にかけて、川崎市岡本太郎美術館で催された「小野佐世男 モガ・オン・パレード」展を見てくれたフランスのマンガ家エマニュエル・ルパージュ氏は驚いた。

 「1930年代の日本は軍国化が進む暗い時代だと思っていたのに、こんなに明かるく時代の女性を描いたアーティストがいたとは思いがけなかった」と、私に語った。

 もっとも私の父は、モダンガールと軍国化の時代を象徴するような「ファッション・ショウ」という絵を、『東京パック』という風刺アート雑誌の表紙に描いている。軍艦の形をした帽子をかぶった女性と鉄かぶとをつけた女性のまぶしいほど輝く顔を描いたその表紙が、二・二六事件のわずか2か月前に発表されたことは、アメリカの日本現代史研究家を驚かせた。アンドルー・ゴードン著・森谷文昭訳『日本の200年』上巻(みすず書房、2006年刊)にこの絵は収録されており、昨年2013年に改訂版が出た。この表紙絵は、小野佐世男の代表作のひとつに数えられている。



 『小さいおうち』には、中国との戦争で南京が陥落したときの東京での提灯(ちょうちん)行列などの大騒ぎが描かれ、おばあさんは日記にそれを記す。すると高校生は「でも、そのとき南京大虐殺もあったんだよ」と注意する。

 つまりこの映画には、時代の当時者であるおばあさんの生活実感にもとづく正直な記録と、後の世代が教えられている時代の〈通念〉とが対比されている。どちらも正しいのだが、その片方だけをうのみにしてはいけないと、この映画は語っているように私は感じた。

 また、この映画には一冊のマンガの本が登場する。

 おばあさんが女中奉公のため住みこんだ東京の赤い屋根の家には、五歳の男の子がいた。父親は、オモチャ製造会社で働いているが、次第に金属を使った上質のオモチャは作れなくなっていく。公園の鉄棒など、金属類は兵器を作るために供出(軍に提供)させられてしまう。紙だけではいいオモチャは作りにくい。

 この会社に若い社員がおり、吉岡秀隆が演じるその青年は、しばしば赤い家を訪ねるようになる。あるとき、青年は五歳の男の子へのおみやげに『タンクタンクロー』のマンガ単行本を持ってくる。阪本牙城作のこのマンガは、1935年に講談社から美しい箱入りクロース装の本となって出版された。もともと『幼年倶楽部』という雑誌に連載されたので、幼児向きのマンガである。

 この本は後に講談社から復刻版が出ているが、映画『小さいおうち』に出てくるその本は、小学館クリエイティブから2005年に復刻されたものを使用していることが、映画の最後のクレジット・タイトルに出ている。

 さらにこの『タンクタンクロー』の色刷りの本は、2012年にアメリカで、日本の復刻版よりもひとまわり大きな判型の箱入りの豪華な英語版として刊行されていることをつけ加えておこう。

 このアメリカ版の箱や表紙の装丁は、長編『ジミー・コリガン』や、読者が自分でストーリーを自在に構成していくコミックス『ビルディング・ストーリーズ』(Building Stories)の作者である時代の最先端を行くマンガ家クリス・ウェアが手がけている。

 山田洋次監督の映画のなかで『タンクタンクロー』に出会うとは思いがけなかったが、この本を男の子に与える青年オモチャ・デザイナーの髪を横に垂らしたようなヘアスタイルは、1930年代に『のらくろ』のマンガで人気を得たマンガ家。田河水泡の若き日の姿に通じるものがあるように感じた。

 田河水泡は、1920年代にマヴォ(MAVO)という東京の前衛美術の運動に参加していた。そのいかにもアーティストらしい髪の雰囲気が、映画の青年デザイナーの姿にはあった……。


 私の記憶のなかの〈家〉としては、まず私が生まれ育った東京世田谷の代田の家があり、それを空襲で失ったあと疎開さきの埼玉県指扇の古い家があり、それに話だけで知っている父の学生時代の赤い屋根の家が加わっていたが、この想像の記憶のなかだけの家は、山田洋次氏の映画によって、そのイメージが補強されたのだった。

 その次に私は、1947年、父の帰国とともに、疎開さきから東京に戻ってきて住んだ場所について記すことになる。

 前回私は、東京へ帰っていくときの大宮駅の様子を描いたが、もうひとつ東京へ帰るときの記憶がある。

 それは、疎開さきから東京へ行くトラックに乗っていた記憶だ。

 荷台には、母が前もって疎開さきに送り、私たちが住んでいた部屋にあったタンスなど、いっさいが縄でしばって積みこまれていた。すると私と母と弟はトラックの運転手のとなりの助手席にいたことになるが、助手席に三人も乗れるだろうか。

 ことによったら私はトラックの荷台のすみに乗っていたのかもしれない。このあたりのことは三年前に亡くなった弟にきいておけばよかったのに、とつくづく思う。

 ともかくそれは夜のことで、トラックが東京都区内にはいるとき、一度懐中電灯を手にした警官による検問を受けたことを覚えている。敗戦直後のことで、闇商売の怪しげな人たちのトラックが行き来していた頃なので、検問があったのだろう。もちろん、なにごともなく私たちのトラックは、東京に入ったのだった。



第35回は来年1/24(金)更新予定です。