2014年1月24日

第35回 悲しき口笛

 「失礼ですが、ここはSさんのお宅でしょうか」

 1946年5月、インドネシアから復員し名古屋港に着いて4年3か月ぶりに日本の地を踏んだ私の父が、代田の自分の家が空襲で焼失してしまったことを知って父が訪ねたのは、同じ世田谷の北沢にある自分の姉の嫁ぎさきの家だった。

 その地域は空襲を受けなかったので、父がインドネシアに陸軍報道班員として出征する前と、S家はまったく変らずにあった。しかし、戦争の空白を経たあとの父は、当然そこがむかしのままの姉の家だと思いつつも、ついおずおずと玄関さきで問いただしたのだった。

 そして、その家を仮の住まいとしながら、マンガ家としての仕事を再開していた。その家に東京へ戻った母と私たち子ども二人も住むことになったのである。

 広大な家だった。二階だてで広い庭があり、父は二階のひと部屋で原稿を描いていたようだ。そして私たち親子四人が借りたのは、その家の南西側のはじにある八畳間だった。このひと部屋にタンスその他の家具を置き、四人が住むことになったのである。

 S家は九人家族だった。父の姉はきつい性格だったが、その夫のもと銀行員は、戦前アメリカで銀行の支店長を勤めたとても穏やかな紳士だった。小さな子どもの私にも、ていねいなことばづかいで話しかけていたことを私は忘れない。

 その子どもたちは女の子が五人、男の子が二人の七人で、女性たちは当然のことだが、とてもにぎやかだった。

 後にこの家を離れてから、私がひとりでS家を訪ねると、玄関に女性たちがわっと現れ「まあ、耕世ちゃん、どうしたの?」と口ぐちに話しかけられ、私はおどおどと絶句してしまうのだった。

 それはともかくとして、この北沢の家での一年あまり(だったと思うが)の間借り生活については、実のところ私はあまり書きたくはない。父の姉の一家の人たちは、みな私たちに親切だったのだが、それでも私にとって、これまでで最もつらい時期だった。

 疎開生活も楽ではなかったはずだが、それは戦時中の極めて特殊な時間と空間のなかでの生活であって、いまになってふり返ってみると、なにかふしぎな夢のなかに生きていたような気もするのである。そこには一種、澄みきった時間があった。

 北沢の八畳間での親子四人、やがて妹が生まれて五人)の生活は、戦争が終ったあとの、いわば回復された〈正常な〉時間のなかに戻ったと言えるだろうが、〈俗悪さ〉といったものが、いきなり流れこんできたような印象――といったらいいだろうか。

 このS家から歩いて5分もしないところに代沢小学校があり、私はそこの二年生として編入した。

 この小学校でも、さまざまなことがあったが、そのひとつとして美空ひばり主演の映画『悲しき口笛』(1949)が、夜の校庭で上映された思い出がある。

 校庭に大きな白い布のスクリーンが張られ、映写機で映画が野外上映される。校庭は子どもたちでいっぱいで、私はことによったらスクリーンの裏側で見ていたのかもしれない。

 映画の内容はほとんど忘れているが、美空ひばりがニワトリのようにはねながら歌をうたう場面があったような気がする。おそらくこれが、私が戦後初めて見た映画だったろう。




 この小学校でも私はいじめられた。

 疎開さきの小学校では、都会から来た子どもということでいじめられたのだが、東京の代沢小学校でも、いじめられた。途中からクラスに編入した生徒は、どうしても好奇心を持って見られるのだが、私のようにひと前で口をきくのがにがてな子どもは、うまくクラスの仲間たちとうちとけにくく、おかしな奴と思われていたのかもしれない。

 私がクラスの他の生徒たちと話があわないのには理由があった。

 八畳ひと間で暮している私のところには、ラジオがなかった。だからラジオの人気番組とか、プロ野球について、私はなにも知らない小学二年生だった。

 当時は放送といえばNHKのラジオしかなかったのだが、「二十の扉(とびら)」という人気番組があった。もともとはアメリカで人気の「20の質問 Twenty Questions」という番組を日本向きにした番組で、「それはなんでしょう」というあるものを、参加者の文化人などが、司会者への20回の質問のうちに当てなければならないゲームだった。

 例えば「それは植物ですか?」「ちがいます」といったやりとりで、そのものがなにかを探っていく。このゲームは子どもたちのあいだでも遊ばれていて、学校でも「二十の扉」の遊びをクラスでやってみることがあった。

 クラスの先生がこの遊びを指導するのだが、ラジオを聞いていない私には、なにがなんだかわからない。それで先生もしかたなく「小野は外れてていいよ」ということで、私はそのゲームに加われなかった。

 そんなことがいくつもあったのである。



第36回は来年1/31(金)更新予定です。