2014年1月31日

第36回 野球ができない男の子

 小学校二年のころ、私は男の子たちのあいだで人気の日本のプロ野球について、まったくの無知だった。ラジオのプロ野球の実況放送をきいたことがなかったからである。

 クラスの仲間たちは、巨人軍の川上哲治選手の話題などで盛り上がっていたが、私はそのなかにはいることができなかった。野球帽をかぶり、そこにジャイアンツのGのマークやバッジをつけている男の子たちもいたのはもちろんだが、私には興味がなかった。

 そもそも、野球というスポーツがどういうものか、私は知らなかった。私に野球のルールや、ボールを投げたり受けたり打ったりする方法を教えてくれた者はいなかった。

 たいていは、野球好きの父親が、男の子に野球を教え、キャッチボールをしたりするのだろうが、私の父は忙しく、小学生の私が朝学校に出かけるときは、たいていまだ寝ていたし、家に帰ってくるのは夜おそく、子どもたちが眠ってからだった。

 しかも八畳間のなかでのテーブルで原稿を描くのだから、まわりが騒がしいといけない。ラジオがなかったのは、ラジオを買うお金がなかったというより、ラジオはうるさいから置かないでいたのかもしれない――と、いまこれを書いていて思う。また父は、特に野球が好きだったようには思えない。

 そんな次第で、私は小学校の仲間たちとキャッチボールというのを、やったことがほとんどなかったのではないか。

 もしキャッチボールを試みたとしても、あまりに私の投げかたがひどいので、あきれられて相手にされなくなってしまったのだろう。

 つまり、きちんとした指導を受けていなかったので、ふつうの男の子が投げるようにボールをちゃんと投げられないのである。

 このことは、ずっと恥ずかしくて口にできないでいたのだが、いまでも私は、ボールを正しく投げられない。ずっと後に、一学期だけある高校ですごしたことがあるのだが、そのとき体育の時間に、クラスメートから「おまえ、野球やったことがあるのか」と言われたことがある。「キャッチボールから、きちんとやらなくちゃダメだよ」
とその高校一年生は私に言った。

 彼は好意的に私にそう教えてくれたのだが、私がボールを投げると、それはいわゆる〈おんな投げ〉、つまり女の子が投げるようなかっこうで投げているらしかった。それはとても屈辱的なことなのだが、しかたがない。男性としてのこの恥ずかしさは、いまにいたるまで、ずっと私につきまとっていることを、ここに白状しておく。

 それもこれも、子どもの頃にそもそも野球というものを知らなかったからなのだが、同じ環境にあっても二歳下の弟は野球が出来るようになっていたようだから、やはり私に問題があったのだろう。

 私が大学生になってから、家の近所の同年輩の学生と雪合戦をしたことがある。飛んで来る雪の玉を頭に受けた私を見て、弟があきれたことを覚えている。「あんな速度のおそい雪のボールをよけられないのかよ」

 まあそんな次第で、私は日本のプロ野球や大リーグでのイチローの出る試合をテレビで見ることはあるとはいえ、本当の意味では野球がそれほど好きではない。結局のところ、私には野球が身についていないのだ。



 代沢小学校のクラスメートたちにいじめられるとは、例えばどういうことかというと、石をぶつけられたりするのだ。

 道で出会うと、小石をひろって投げられる。それが私の頭に当って、ちょっと血が出たり、こぶができたりして、母を心配させた。こちらも小石をひろって、それこそ野球もできないくせに、相手に投げた。ちゃんと相手に当ったことがあるのか覚えていない。

 そんな相手とも、別のときには仲よく遊んだりするのだから、やはりそれは子どもの世界なのだった。

 1947-8年ごろの子どもの遊びといえば、おそらく全国共通で、ベーゴマとメンコだったのではないか。

 どちらも私は苦手だった。ベーゴマは特にダメで、ほとんど手にしたことがない。しかし、メンコはやった。厚紙のカードを、地面にたたきつけて、相手のカードを風圧でとばせば勝ちなのである。

 そのメンコには、当時の人気もの、つまりプロ野球の選手や、映画スターなどの姿が描かれていたのではなかったろうか。それを道路のまんなかで、たたきつけあうのだ。

 たまには私も勝つことがあった。勝てば、なにか賭けていたものをもらえて、負ければそれを相手にあげなければならなかった。

 賭けるのは、たいていマンガの本だった。ここに手塚治虫が登場するのである。



第37回は来年2/7(金)更新予定です。