2014年2月7日

第37回 下北沢で『はちみつ色のユン』を見る

 東京・世田谷の北沢、父の姉の一家が住むあたりは、空襲を受けなかった地域なので、戦前の――つまり、1930-40年代初めにかけての住宅地が、そのまま残っていた。

 私たち一家が間借りして住んでいたその家の前の道の向い側には、竹やぶが昼でも暗くおおっているさらに大きな家があった。

 家の前のその道を右に行くと、すぐ代沢小学校のある大通りに出る。そこはいろいろな店のある賑やかな通りで、それを北に15分ほど歩けば、下北沢駅の南口に行きつく。

 小田急線と井の頭線が交差している駅である。この原稿を書いている一週間ほど前、久びさに下北沢に出かけたら、風景が一変していた。

 この前にここへ来たのは、下北沢にある銀行に用事があったからだが、そのときはまだ小田急線の駅は工事中で、線路も地下にもぐっていなかった。

 ところが1月17日に出かけてみると、小田急線は地下にもぐり、地上にあった線路は取り払われていた。

 下北沢駅には北口と南口があり、小田急線の線路を越えた通路でつながっていたが、線路が取り払われたので、かんたんに北口=南口間の行き来ができる。ちょっと拍子抜けしてしまった。

 久びさに下北沢に出かけたのは、南口にある小さな映画館で、『はちみつ色のユン』というフランス=ベルギーなどの合作による75分のアニメーション映画を見るためだ。

 これは2013年度の第17回文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門の大賞を得た作品である。およそ1年ほど前から小さな映画館で上映されていたのに、私はうっかり見そこなっていた。1月17日に、下北沢の映画館で最後の上映があると知れば、行かないわけにはいかない。

 雑居ビルの2階にあるミニ・シアターは客席が50席ほどで、20人ほどの入場者がいただろうか。映画はすばらしかった。1950年から53年までの朝鮮戦争の後、韓国には多くの戦災孤児がいた。そして1960-70年代にかけて、20万人もの孤児たちが、国際養子として韓国を後にした。そのひとり、ユンはベルギーの一家にひきとられて育った。

 成長したユンは、コミックスの作者となり、自伝をフランスのBD出版社から刊行すると反響を呼び、長編アニメとなった。ユン自身もフランス人の監督といっしょに共同監督を務め、本人も映画のなかに登場する。

 というのは、このアニメには実写の部分もあって、ユン自身が現在の韓国(ソウル)を訪れる場面もあるからだ。ユンがベルギーの小学校で、自分のアイデンティティについて悩み、ベルギー人の両親や学校といさかいを起こしたりする。その過程で、ユン少年は日本のサムライやマンガのヒーローたちにあこがれ、彼らに自己同一しようとした時期があったことがわかる。

 映画が終ると、客席には涙を流している女性や男性の姿があった。

 たまたま観客のなかにBD好きの青年も来ており、彼は映画を見る前に、下北沢の古本屋をのぞいてきたという。「これを手に入れました」と、彼が見せてくれた本がすばらしい。それは、いまはとっくになくなったフランスの子ども向けの週刊コミック誌『ピロット』の1971年分の合本だった。「この頃の『ピロット』が、いちばんおもしろかったと聞いていたので」と彼は嬉しそうだった。

 全ページカラーで、つるつるした上質紙に印刷された40年以上むかしの『ピロット』の合本が、東京の下北沢の古本屋にあったとは…。そのページをめくりながら、『ピロット』を毎週楽しみにしていた1970年代の自分を思い出していた。

 メビウス=ジャン・ジローが『ブルーベリー』シリーズの連載を開始し、フレッドがファンタジー・コミックス『フィレモン』を、そしてフィリップ・ドリュイエが『ローン・スローン』という雄大な宇宙冒険コミックスを連載していた時期である。出版元のダルゴー社の編集者が『ピロット』を毎週私に送ってくれるようになったいきさつは、いずれ書くことになるだろう。1970年代は、この雑誌の黄金時代であった……。

 私が大学生だった頃は、下北沢には四軒の古本屋があり、毎日のように通っていたことを思い出す。久しぶりの下北沢で、そのうちの一軒が、まだ残っていることを知った。

 一瞬で時間をさかのぼった感覚。文庫本が並ぶ店頭。そのガラス戸をあけて入ると、本の山のうしろに主人が座っている。かつての彼は、いつもパイプをくわえていたものだが……。

 「まだ、この店があったのですね」と私。

 「私も一度、倒れましたからね」と、主人はほとんど私を見ずに答えた。「いまは午後だけ店を開き、のんびりやっています」

 彼も私のことを覚えているだろうと思いつつ、余計なことはしゃべらずに、文庫本を一冊買って、私は店を出た。BDファンの青年が『ピロット』の合本を買ったのは、この店ではなく、私が行ったことがない新しい古書店である。

 なお『はちみつ色のユン』のBDは、フランスで3巻まで出て完結している。日本で翻訳刊行されるといいのだが……。





*第38回は2/14(金)更新予定です。