2014年2月14日

第38回 手塚治虫『新宝島』はメンコでも無敵だった

 私たちが間借りしていた父の姉の家の前の道を右に行くと代沢小学校だが、左に行くと住宅地のあいだを通る広い道に出る。道の両側の住宅には、庭の樹々が繁り、みどり豊かで、白いペンキの垣根のあるしゃれた家もある。

 まだ自動車などほとんど通らない頃なので、私は代沢小学校の仲間たちと、よく通りの真ん中でメンコをして遊んだ。これは、子どものあいだの一種の賭けごとと言えよう。メンコ勝負に勝つと、相手から、なにかを巻きあげる。

 それが、マンガ本だった。

 その頃、私たち小学2-3年生の子どもたちに人気のあったマンガ本というと、大野きよし著『鉄仮面』『続鉄仮面』といった一冊64ページ二色刷りの本、同じ大野きよしの『魔島漂流記』などがあったことを覚えているが、それらを圧して別格の扱いを受けていたのが、手塚治虫の長編第一作『新宝島』だった。

 子ども向きのマンガ単行本は、ほとんどすべて描きおろし作品だった。子ども向けの雑誌としては『少年クラブ』『少年』などの月刊誌があったが、マンガの占めるページはわずかだったから、一冊64ページの単行本でも、子どもには読みでがあった。ほとんどが二色刷りで、各ページ三段三コマというコマ割りが基本だった。

 思えば、大野きよしも手塚治虫も大阪の人で、これらは赤本という低級なオモチャみたいなマンガだと関西では呼ばれ、貸本屋で人気があったので貸本マンガだとマンガ研究者が呼ぶことがあるが、東京では事情が違っていたというのが、私の実感である。

 もちろん東京にも貸本屋はあったのだが、私の住む周辺ではあまり目にしたことがないし、貸本屋でマンガを賃りた経験は、私にはない。大阪の出版社から出たマンガ本も、私は東京のふつうの書店で買ったし、当時の下北沢南口の階段を降りたところにある新聞販売店に、上から吊るして売っていた手塚治虫の『ジャングル魔境』などを買ったこともある。

 また、下北沢の北口には、小田急線の線路に沿って、いくつもの店が賑やかに雑然として並んでおり、下北沢のヤミ市と呼ばれていた。ほんとうに闇屋がそこで商売をしていたのかどうか知らないが、いかにも雑然と店が並び、店のあいだの通り道がいりくんでいて、ヤミ市という呼称が似合っていた。

 そのなかに本屋もあって、夜は裸電球に照らされて、子ども向けのマンガ本がけばけばしい色彩で並んでいた。例えば岡友彦の『怪人魔王鉄仮面』という厚いマンガ本が売っていて、「すごく厚いマンガだな」と父は言って、私に買ってくれたものだ。

 二色刷りのこのマンガは、いかにも厚かったが、実際には96ページしかなく、厚い紙を用いているのでツカがあったのにすぎない。

 それに比べると、手塚治虫の『新宝島』は表紙も厚紙ではなく、白黒印刷で、うすっぺらに見えてしまうのだが、なんと192ページもあるのだった。

 しかし、そんな長さを感じさせないおもしろさがあり、一気に読ませてしまうのだ。

 私が最初に買った『新宝島』は白黒印刷で定価35円だったが、これにはいくつかの版があることが、いまでは知られている。

 そしてメンコ遊びのとき、群を抜いて価値を持っていたのが『新宝島』で、これは他のマンガ単行本の何冊分もの値打ちがあった。メンコ勝負でも多くのメンコを取らないと、『新宝島』と交換できなかった。

 そんなこんなで私は『新宝島』の単行本を取られてしまい、改めて買い直したときは、白黒ではなく全ページ茶色の線で印刷された版だったことを覚えている。

 さらに何年か後、手塚治虫が一般に知られるようになってから、大阪の育英出版社が改めて出した『新宝島』は、内容は同じだが、ツカの出る紙に印刷してあったため、とても分厚い本になっており、その背には手塚治虫と作者名が大きく記され、共作者・酒井七馬の名はなかった。

 このメンコ勝負は、代沢小学校の同級生のなかでも、ガキ大将だった男の子を中心に、その仲間たちとしたことを覚えている。

 このような遊びのなかにも、手塚治虫マンガは大きな存在感を示していた。手塚治虫は、まず子どもたちが発見したのであり、大手出版社のおとなの編集者たちが、この若い大阪のマンガ家に注目するのは、それより何年か遅れたことを忘れてはならない。

 手塚治虫に負けないもうひとりのマンガ家に子どもたちが注目したのは、『新宝島』のしばらく後だった。

 光文社から、横井福次郎の長編マンガ『冒険ターザン』が描きおろしで刊行されたからだった。白黒印刷で128ページ、四色印刷の美しい口絵が3枚ついていた。

 「飛行機という、まだ習っていない漢字なんかが出てくるけど、このマンガおもしろいな」と、小学三年になったばかりのガキ大将が私に言った。私もまったく同感で、夢中になって読んだ。





*第39回は2/21(金)更新予定です。