2014年3月21日

第43回 初めてのアイスクリームとクリスマス

 マンガにまつわる海外のイベントに招かれることがある。

 2007年、ロンドンで開催された第2回リンガ・コミカという国際コミックス合作ワークショップに呼ばれたとき私は自分の経歴書に「趣味:熱気球で空を飛ぶこと。好きなもの:アイスクリームとチョコレート」と記した。

 これはその通りなのだが、では私が生まれて初めてアイスクリームを食べたのはいつか――というと、はっきりしない。

 だが、アイスクリームにまつわるひとつの出来事は、鮮明に記憶している。

 私の妹は、1947年4月に、下北沢の8畳の部屋に私たち一家が暮らしているときに生まれた。その妹が生まれた病院は、下北沢から小田急線でひとつ新宿寄りの東北沢駅の近くだった(正確な場所などは覚えていない)。間借りしている家から歩いて行ける距離である。

 ある日、私は父に連れられて病院に母を見舞うことになった。

 「アイスクリームを持っていこう」と父は言った。

 スーパーマーケットやコンビニエンス・ストアなどない時代である。アイスクリームは、ふつう市販されていなくて、喫茶店で味わうものだった。

 下北沢駅南口の正面に、小清水という喫茶店があった。私たち一家は、そこでおしるこを食べたり、かき氷やアイスクリームを食べたことがある。

 父は魔法びん(ジャー)を用意した。それを持参して小清水に行くと、アイスクリームを五個ほども注文し、それを魔法びんにいれてもらった。それから私は父と、生まれたばかりの妹がいる病院へ歩いていった。そのとき私が着ていたのは、上から下までつながっているプルオーヴァ(つなぎ)の服だったこともはっきり記憶している。

 母がアイスクリームを喜んだことはもちろんだ。

 ただ、これがいまの基準でいうほんとうのアイスクリームだったとは思えない。現在の厚生省の基準では、乳脂肪分8パーセント以上を含むものをアイスクリームと言う。それより乳脂肪分が少なく3パーセントまでをアイスミルク、それ以下はラクトアイスとか氷菓と呼ぶ。

 おそらく1947年当時(いや、かなりずっと後まで)東京の喫茶店などで出されていたアイスクリームの多くは(高級ホテルでのものは別として)アイスミルクや氷菓にすぎなかったのではないか。

 日本でほんとうのアイスクリームが日常的に食べられるようになるのは、1960年代末から1970年代まで待たなければならない。

 産後の母にアイスクリームを届けた日のことを私が忘れないのが、それは私が父とふたりでどこかへ出かけた数少ない機会のひとつだったからだ。



 書き忘れていたが、妹が生まれて五人家族をなった私たち一家が住んでいた父の姉の家には、もうひとり住んでいる別の人がいた。

 それは日系アメリカ人の男性で、日本占領の連合国軍で働いている人だった。

 私は彼にゆっくり会う機会はなかったと思うのだが、12月のある晩、この家に住んでいたみなが、ひとつの部屋に呼ばれた。

 その洋室にはいろいろ飾りつけがしてあったはずだが、良く覚えていない。

 とつぜん「わっはっは」と笑い声がして、赤い服に白いひげ、赤い帽子の人が大きな袋を背負ってはいってきた。つまりサンタクロースに扮した日系アメリカ人だったのだが、そもそもクリスマスをかサンタクロースというものをまだ知らなかった私と弟は、ただ大ぜいのおとなたちのあいだで、恥ずかしくて身を固くしていた。

 サンタのおじさんは、集まった人たちひとりづつに、袋からとりだしたものを配っていく。

 私と弟がもらったのは、チョコレートの包みだったと思う。最後にサンタクロースは、自分自身のためのプレゼントをとりだし、その包みをあけると、まったくひどいものだったので、みな大笑いし、サンタクロースもおどけて倒れてみせた。

 その家の世話を受けていた日系アメリカ人は、そういう演出をして、私たちを楽しませてくれたのだった。

 たぶんこれが、アメリカ式ユーモアというものを、本やマンガのなかではなく、私が身ぢかに体験した最初だったのではないか。

 このアメリカ人は、ときどきアメリカの兵隊食であるCレイションを持ってきてくれて、父ももらったことがある。それは、占領下の日本人のあこがれの細長い箱で、そのなかからチューインガムやチョコレートなどが出てくるのだった……。



 そのころ父が、多くの雑誌にマンガやイラストレーションを描きまくっていたのは、戦前から住んでいた代田の焼け跡の敷地に、新しい家を建てるためだった。

 小学二年の終わりころの私は、どうもからだが弱くやせていたらしい。脊髄カリエスの疑いがあるというので、北沢の近くの医院に何度か通ったことがある。

 医院の待合室で子どもは私ひとり、いつまでも私の番が来ないので、見かねた周りの女性患者たちが「この子、私たちよりさきだったわよね」と心配して、ぼんやりこころ細く待っていた私のことを医者に伝えてくれたことがある。

 それほどそのころの私は恥ずかしがりやだった。ひと前で口をきくことができない。このときも、自分の番をとばされてしまったようだと感じてはいたが、そのことを訴えることができなかったのである。

 ほかにも中耳炎ではないか、蓄膿症ではないかなどと、耳鼻咽喉科の医者に通わされたこともあったが、いつもこんな調子で、待合室ではわけもなく恥ずかしく、身のちぢむような思いがしたものだ。

 しかし、いろいろな病気の疑いも、どうやらまちがいだったようで、いつのまにか医者通いはしなくなった。そうした期間、私は学校に行かない日も多かったのである。

 そしてようやく新しい家が建ち、引越すとともに、私は新しい小学校に転校することになった。



*第44回は3/28(金)更新予定です。


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