2014年4月25日

第48回 初めて自動車に酔う

「手塚治虫の作品は、私は好きだ」

 と語ったのは、前々回に紹介したスイスのBD作家コゼ氏である。

 彼の人気シリーズ、ジョナタンの冒険連作のひとつに、日本女性がヒロインとして登場する一冊『アツコ』(Atsuko)がある。ジョナサンはアツコと最初チベットで会い、やがて彼女の住む日本にやってくるのだが、そのなかで日本の家の様子が描かれる。その部屋には、鉄腕アトムの人形が置いてある。

 「まあ、フランスの家庭を描くとき、『タンタン』の本や人形が置いてあるのと同じようなものさ」

 とコゼ氏は言うが、彼は別に手塚マンガに詳しいわけではなく、目を通しているのは「鉄腕アトム」くらいのものだ。だが彼は、その作品を良いと思っている。

 「手塚治虫より絵のうまいマンガ家は、たぶんいくらでもいるだろう」とコゼ氏。「しかし、コミック・ストリップ(BD)の絵は、ストーリー展開を支えるためのものだ。その役割のために手塚の絵はすばらしく機能している」

 私もまったく同感だ。コゼ氏は、コミックスとはなにか――を、よく理解しているということが、よくわかることばである。

 その手塚マンガに、私に劣らず熱中している成城学園小学校の同級の生徒がいた。大和通浩(やまと みちひろ)という男で、そのこともあって、私はこの色の白い顔をしたクラスメートと、急速に親しくなった。

 彼の家は、成城学園の正門から歩いて三分ほどのところにあった。

 詳しいことはわからなかったが、とにかく彼の家は金持ちなので、それは大きな屋敷だった。

 午後3時に学校が終わると、ほとんど毎日、十人近い同級生たちが、女の子も含めて、誘われるままに、彼の家に遊びに寄った。

 庭も広いから、家のまわりでいろいろな遊びができる。戦争ごっこみたいなことも、よくやったものだ。仲間をふた組にわけて、それぞれあるルールを決めて、一種のゲームをする。捕虜になった女の子を、見つからないようにうしろから近づいて、助けたりする。

 または、なにかのオモチャを宝ものに仮定して、それをうばったチームを勝ちとするような遊び――そんな〈ごっこ遊び〉を毎日のようにくり返して、飽きることはなかった。

 しかし、私にとって彼の家に行くことの最大の魅力は、彼の蔵書だった。

 彼の部屋の書棚には刊行されるたびに、彼が親に買ってもらっていたすべての手塚治虫の本と、海野十三による科学小説がすべてあった。その他に南洋一郎(池田宣政)による冒険小説シリーズ『新ターザン物語 バルーバの冒険』などがあった。

 私も手塚マンガはなんとかすべて買ってもらっていたが、海野十三などは、すべて親に買ってもらうというわけにはいかなかった。

 だから彼の家に行った帰りには、私のランドセルは、彼から借りた本でいっぱいになった。海野十三の『謎の透明世界』(別タイトル『四次元漂流』)『宇宙怪人』『火星魔』(これは戦前は『火星兵団』の名で刊行されていたが、アジア太平洋戦争の敗戦後は、軍国主義的だというので『火星魔』とタイトルを変え、文章も少し改めて刊行されたのだった)。地球侵略をたくらむ火星人のスパイが日本に潜入しているという内容で、海野十三最大の長編小説だった。

 『宇宙怪人』という作品では、地球にやってきた宇宙人が、地下室などに入ると倒れて死んだようになる。彼は宇宙線をエネルギーとして生きているので、地下には宇宙線が届かないから仮死状態になるのだ――という説明を、子どもの私は「なるほど」と感心したものだ。

 海野十三の少年向け科学小説は、その他『怪塔王』や『超人間X号』、『怪星ガン』など多数あり、手塚治虫もストーリー上で参考にしていることが彼の初期のマンガ単行本(例えば『大空魔王』など)を見るとよくわかる。

 海野十三は多くの少年雑誌に連載していたが、『冒険少年』という月刊誌に連載していた『大地獄旅行』という作品は最後の作品のひとつで、作者の死によって未完のまま終わったことを覚えている。 



 大和の家には運転手つきの自家用車があった。当時は自分の車がある家は、相当裕福な家に限られていたと思う。私はバスに乗ったことはあるが、まだ自動車に乗ったことはなかった。

 そして、どういうきっかけでそうなったのかは忘れてしまったが、ある日、大和に誘われて、彼の家の自動車に三人のクラスメートといっしょに乗ったことがある。

 どこかに車で行ったのだろうが、場所も忘れてしまった。とにかくランドセルを持った小学生を乗せた自動車は、ていねいな物腰のおかかえの運転手によって走っていった。

 途中で私は気分が悪くなった。

 生まれて初めて乗った自動車に、酔ってしまったのである。吐きそうになった。でも、まさか車のなかで吐くわけにはいかないし、吐きそうだから車を止めて――とも、とても恥ずかしくて言えなかった。

 しばらくして車が止まったとき、どんなに私はほっとしたことか。

 外に出てしばらくして、吐き気は止まったので、友だちに私が吐く姿を見られないですんだ。

 小学校時代の最も苦しかった思い出のひとつは、間違いなくこの自動車初体験だった。

 他の三人は、なんともないようだったので、内心私は驚いたが、そのことは口にしなかった。彼らはその前にも、大和家の自動車に乗せてもらったことがあるのだろう。ともかく恥ずかしい出来事だった。






*第49回は5/2(金)更新予定です。