2014年5月2日

第49回 ふたつのドナルドダック像

いま、東京の六本木界隈で、私の興味をそそった美術展覧会が、ふたつ催されている。ひとつは森美術館での「アンディ・ウォーホル展:永遠の15分」だ。

 1974年に日本で最初のアンディ・ウォーホル展が東京駅の大丸デパートで開催されたときに初来日したウォーホルと京都まで新幹線で同行した私は、隣の席にすわって彼に長いインタビューをしている。その内容は、『ぼくの映画オモチャ箱』(晶文社・1976年刊)という私の本に収録されている。その翌年、私は改めてニューヨークのウォーホルのファクトリーに彼を訪ねているし、1980年にも会っている。ただし、彼からもらったアニメのポーキー・ピッグのセルは、すっかり乾燥して絵がはがれてしまったが……。

 そんな次第で、私はウォーホルの絵は何度も見ており作品集も持っているので、実のところ今度の新しいウォーホル展を見に行く気はなかった。新聞の紹介記事も、あい変わらずマリリン・モンローのシルクスクリーン画が主に紹介され、新鮮味を感じられないでいたのである。

 「でも、小野さん。今度の展覧会にはミッキーマウスとドナルドダックの絵が出ているよ。それがとても良いんだ」

 と教えてくれたのは、ウォーホル初来日のときに私のインタビュー場面(ただし理由があって私の顔は出さず)を用いて、ウォーホルのテレビ番組を作った当時のNHKのディレクターである。彼とは古い友人だ。

 彼のひとことで、私は六本木ヒルズの美術館に出かけた。ウォーホルが鉛筆でさらっと大きく描いたミッキーは1981年の作で、ドナルドは1985年の作。2枚ならんで会場のあまり目立たない場所に飾られていた。

 初期のミッキーとドナルドのいきいきとした表情――よく見ると、どうやらこの2作は、ディズニーのミッキーとドナルドの絵を拡大し、それに紙を重ねてトレスして描いたのだと思われた。

 この展覧会には、ジェームズ・ディーン主演の映画『理由なき反抗』(1956)の日本版のポスターを描いたウォーホルの鉛筆画も展示されているが、明らかに映画ポスターの上に絵を載せ、鉛筆でなぞったものだとわかる。それが立派な作品となっているのである。

 ミッキーとドナルドも、そうした手法による絵らしいが、私はほれぼれとながめていた。

 何度もこの絵の前に私が戻ってうろうろしているので、美術館の女性が「どうなさったのですか?」と声をかけてきたほどだ。私が館内で迷児になったのかと心配してのことだった。つまりそれほど、私はこの絵が気にいったのである。

 もう一点、ドナルドダックのカラーの絵が展示されている。第2次世界大戦のさなか、ディズニーがヒトラー攻撃のプロパガンダとして制作した、ドナルドを主人公にした有名な短編アニメがあるが、そのドナルドを描いたものだと、私にはすぐわかった。それについては、『ドナルド・ダックの世界像 ディズニーにみるアメリカの夢』(中公新書・絶版)に詳しく記してあるので、お読みください。

 美術館の売店で、私は図録を買おうと思い、見本をめくってみたが、ミッキーとドナルドの絵だけ収録されていない。「そんなはずはないわ」と言った売店の女性は、やっぱり出ていないと知ると、どこかに電話して問いあわせてくれた。「すみません、あの絵は掲載の権利がとれなかったそうです」ときいて、私は図録を買うのをやめた。

 でも、あの鉛筆画のミッキーとドナルドを見るだけでも、ウォーホル展は出かける価値がある。

 アンディ・ウォーホル(1928-1987)も、すでになつかしい存在になってしまった。

 もうひとつの展覧会は、ミッドタウンの国立新美術館で行われている大阪・国立民族学博物館の収蔵品を展示した「イメージの力―国立民族学博物館コレクションにさぐる」である。

 文化人類学の研究対象である世界のさまざまな国の人びとが用いてきた魚をとる網や、祝祭のときの仮面その他を、美術品として展示したのが、この展覧会の新しい視点であった。

 国立民族学博物館のスタッフが、世界を旅して集めてきた品々が広大な会場を飾り、楽しく見ていったのだが、最後に近い場所で私は立ちどまってしまう。

 そこには、アフリカのセネガルの観光客向けのみやげもの店で買ってきた一個のトランクが展示されていた。

 そんなに大きくはないその手製のトランクは開けられていて、その内側に、なんとドナルドダックのコミックスのカラーページが貼られていたのである。

 ひと目で、カール・バークス(1901-2000)によるドナルドのマンガだとわかった。『ドナルド・ダックの世界像』は、このバークスについて書いた本なのである。彼は、世界最高のドナルドのマンガをウォルト・ディズニーの名のもとで描き続け、それはアフリカでも翻訳されていたから、トランクの内装となったそのコミックスのなかの吹きだしのセリフは、セネガル(かどこかアフリカ)のことばに訳されていたのだった。

 民族学博物館のスタッフも、もちろんこれがドナルドのマンガだと知っていただろうが、作者名など気にしなかったにちがいない。

 ことによったら、この展覧会の入場者のなかで、これがバークスによる作品だとわかったのは、私ひとりだったのではないか?

 展覧会の図録を手に入れたけれど、作品目録にアフリカのトランクは載っているが、写真は出ていないのが残念でならない。だれもこのトランクの世界マンガ史上の意味に気づいていないのだろう。

 私が持っているアメリカのコミックブックの最も古いものは、1947年発行の『ウォルト・ディズニーズ・コミックス』の数冊で、そのすべての巻頭に、バークスによるドナルドダックの活躍が載っていた。

 そうしたコミックブックを古本屋で買っていた小学四年生ごろの私は、それらを成城学園小学校のクラスに持っていったのだった。





*第50回は5/9(金)更新予定です。