小学校のクラスでの日々について書いてきたが、忘れないうちにその頃の私の家の様子について記しておこう。
戦争から帰ってきた父が、焼け跡に新しく建てた家は、正確にはもとあった家の焼け跡ではなく、道路をへだてた、その向かい側の土地に作られた。
もともと戦前から私が住んでいた地所は借地で、向かい側の二百坪ほどの土地が、小野家が持っていた地所であり、人に貸していたのである。戦前は、そこに五軒の家があり、中心に井戸があった。
だから改めて、自分の地所に家を建てたことになるが、よくその井戸で、しばしば呼び水をしながらではあったが水くみをしたものである。井戸のそばに小さな池をつくり、そこに金魚をいれたものだ。
敷地の東側、垣根と門がある方から、四畳半の居間と台所と風呂場があり、続いて8畳間と縁側があり(そこまではたたみの和室)、そして玄関を渡るとさきに8畳の洋間があって、そこが父の仕事場であった。
この洋間には二階というほどではないが、天井部屋があり、階段ではなく脚立(きゃたつ)を立てて登り、天井にある四角い切り口のとびらを押しあげて、そのせまい部屋にはいることができた。
父の仕事場はあるが、本格的なアトリエは、まだ建っていない。
だから敷地に余裕があった。東から西へ伸びる建物の南側は広い庭になり、北側の風呂場のそばには物置きが作られ、余った場所にはイチヂクの木が育っていた。
道路に面した東側に門があり、門柱には丸い外灯が乗っていて、だいたい昼間は、その外灯のそばに、ネコが一匹すわっていた。
それが最初に飼っていたネコで、よくある灰茶色の縞のはいった雄ネコで、ポンという名は父がつけたのだった。
その門には緑色の木のとびらがついていて、左右に開き、閉じるときは木の角棒をわっかに通す。
その門から家の玄関まで、コンクリートを敷いた道が庭を通っている。
その道の南側は、初めトウモロコシ畑になっていた。
つまり、1945年夏の日本の敗戦後は、食糧難のために多くの家が家庭菜園を作り、なにか作物を植えていて、それは珍しいことではなかった。
わが家ではトウモロコシを育てていたが、そこにヒマワリを植えていた時期もある。
そして、門の左右にのびる緑色にぬった木の垣根には、バラの木が植えられ、バラのつたが巻きついていた。門の北側には別の植木もあったし、南側には柿の木も育っていた。
また、玄関の近くには、シュロの樹が二本植えてあった。写真を見ると、私が小学生のころの二本のシュロは、私の背よりも小さく低いのだが、私が大学生のころには、見あげるような高い樹に育ち、植木屋がはしごをかけて葉を切るほどになるのである。
そのほかツバキの木や、モクレンの木、かんきつ類の木(よくアゲハの幼虫が葉を食べていた)、ツツジなど、いろいろな木が植えてあった。
そうした家の様子は、道を行く人たちからは、すっかり見えていたにちがいない。
よく家をへいで囲って、なかを見えないようにしている家があるが、父はそれを嫌った。
「マンガ家の家だから、明るくなくちゃな」と、外から見える開放的な家にしたのだった。
こうした家での子どもの仕事のひとつに、雑草とりがある。夏は、ひどい草いきれのなか、私は麦わら帽子をかぶり、隣家の境に近い場所で、草とりにはげんだ。
隣家のおじさんも、やはり草とりをしているのが見えた。手と鎌をつかって、汗だくになって草をとっていく。
あるとき庭の草ぼうぼうの一帯を茶の間から見ていたら、ネコのポンがいる。
ポンがなにをしているかというと、ヘビと争っているのだった。草のなかからかま首をもたげたヘビに、ポンが爪を立てて挑戦しているではないか。
つまりその頃は、世田谷の住宅地にも、ヘビがいたということなのである。もちろん毒ヘビなどではなく、ごくふつうの青大将なのだろうが、わが家のネコは、門柱にうずくまっているばかりでなく、堂々とヘビともけんかしていたのだ。
「ポンのやつ、爪をかくすということを知らないんだ」と、父はこの元気なネコをかわいがっていた。
そして秋になると、わが家の庭は、コスモスの花でいっぱいになる。門から玄関に続く道の両側に、コスモスの花は、空中に浮くように見事に咲き誇っている。
そこを、まだ二歳にならない私の妹が歩いていると、コスモスの繁みに隠れていたポンがとびだして、妹の手をひっかくのだった。
「ポン・ギー」と言って、妹は泣きじゃくった。「ポンがギーッと手をひっかいた」という意味である。妹の手当てをしながらも、そんなポンを、家のものはみなかわいがっていた。ポンは、小さな妹を襲って遊んでいたのである。
だが、わが家の動物は、ネコだけではなかった。
*第57回は7/4(金)更新予定です。