2014年7月4日

第57回 新訳版『リトル・ニモ』のためのマンガによる序文

 前回、家で飼っていた最初のネコであるポンについて書いた。

 しかし、ネコを飼うということは、家にネズミがいたからでもある。アジア太平洋戦争後から1950年代の木造家屋には、多かれ少なかれネズミがいたのではないだろうか。天井があれば、ネズミがいてもおかしくはない……。

 と書いてきて、別のネズミのことを思う。私が翻訳したアート・スピーゲルマンのグラフィック・ノヴェル『マウス』および『マウスⅡ』(いずれも晶文社)のことだ。

 アウシュヴィッツのユダヤ人収容所を生きぬいた自分の父のことを、マンガによるノンフィクションとして描いた『マウス』は、物語マンガを新しい次元にひきあげる結果となった。彼はそのそのコミックスのなかでユダヤ人をネズミに、ドイツ人をネコの姿に置きかえて描いた。人間たちを単に動物化するのではなく、動物の仮面をつけたマスク・プレイのようにも見える描き方をしたのは、すばらしい着想だった。

 そのアート・スピーゲルマンが敬意をはらってきた世界最高のコミックスは、ジョージ・ヘリマンによる『クレイジー・キャット』と、ウィンザー・マッケイによる『リトル・ニモ』だった。

 私が彼と初めて会ったのは、1980年の東京でだったが、ものの10分もしないうちに、私とスピーゲルマンは『リトル・ニモ』やカール・バークスによる『ドナルド・ダック』のマンガについて話しこんでいて、すぐに意気投合した。

 私は1976年に、『リトル・ニモ』の日本で最初の翻訳を試みたが、すでに絶版となってしまった私の『ニモ』の本は、古書値があがってしまい、10万円近い値段で買ったファンもいる(私自身も、定価と同じ4,500円で売っているのを古書店の目録で見つけ、注文して買ったこともある)。

 それは、150ページほどの本だったが、今後改めて翻訳をし直して、400ページ以上になった『リトル・ニモ』の集大成を出すことになった。

 8月上旬に小学館集英社プロダクションから刊行される予定だが、この新しい日本語版のため、だれか『ニモ』を良く知っている人に序文を寄せてほしいという気持ちになった。それにふさわしい人は、アート・スピーゲルマンしかいない――と、私はすぐに思った。

 だが、私がスピーゲルマンにそれを依頼したのは6月の初めだった。

 「うーん、いまはもうれつに忙しくて、秋まで仕事が手いっぱいなんだ」と彼は返事をしてきた。「しかし、ひとつ思いついたことがある。ぼくは1986年、ウィンザー・マッケイの研究家として知られるジョン・キャナメイカーによる評伝『ウィンザー・マッケイ その生涯と芸術』という本が出たとき、USAトゥデイという新聞に頼まれて、書評を書いたことがある」と言う。

 それは、文章ではなく見開き2ページにまたがるコミックス形式の書評なのだった。マンガのコマのなかに、ネズミの顔をしたスピーゲルマンが登場し、吹き出しのなかで、いかにマッケイがすばらしく、その代表作である『夢の国のリトル・ニモ』が、どれほど画期的なマンガの技術を開発していったか、時代背景を説明しながら語っていくのだった。

 『リトル・ニモ』の画面を引用しながら、スピーゲルマンは、世界マンガ史上に輝く『リトル・ニモ』の世界を、プロのマンガ家の目を通して論じているのである。具体的でわかりやすく、マッケイとその作品の魅力を読者になんとかして伝えたいという情熱が、この2ページにあふれていて、その熱意が読む者をつつみこんでしまう。



「だから、この書評マンガの吹き出しのなかのセリフを、一部、きみの日本語版の『ニモ』の本に向くように書き直して、それを序文にするというのはどうかな」

とスピーゲルマンは言ってきたのである。

 実は、このマンガ形式の書評は、アメリカの出版界で非常に評判がよく、1997年にアメリカで刊行された『リトル・ニモ傑作選』のなかにもスピーゲルマンによる解説の形で再録されているほか、フランスで刊行された『リトル・ニモ』についての研究集成の本にも(仏語訳されて)再録されている。

 さらに2010年に刊行された、スピーゲルマンが『マウス』をめぐる自分のコミックスへの道筋をふり返って語った『メタ・マウス』という分厚い本のなかにも収載。

 つまりこの作品は、書評として以上に、『ニモ』についての優れた解説マンガとして、独立した価値をもつものとされてきたのだった。

 そして、これまでの再録では、吹き出しのセリフは初出のまま一語も変えていなかったのだが、今度の日本語版『ニモ』の新訳のため、それを少し変えてみようというのだった。

 改訂版の出来ばえはすばらしかった。絵はまったく同じだが、吹き出しのセリフに手を加えたことで、デジタル化が進む最新の出版事情も反映しており、現在の日本のマンガ読者が、とりわけ楽しめる内容になっている……。

 と説明するよりも、ともかく来月上旬に刊行される私の新訳版『リトル・ニモ』と、アート・スピーゲルマンによるカラーのコミックス形式の序文を、どうか読んでほしい。詳しいことは、読んでからのお楽しみなのだから。

 「セリフの一部の修正に、まる二日かかったよ」とスピーゲルマンは語る。「これじゃ、新しく序文を書いたほうが楽だったかな」

 世界マンガ史上の〈文化遺産〉と言っていい『リトル・ニモ』のマンガに、マンガによるすてきな序文が寄せられたことは、なによりも嬉しい。



 さて次回は、私の子ども時代の家で飼っていたニワトリたちのことを話そう。






*第58回は7/11(金)更新予定です。