2014年8月1日

第61回 まぶたのなかの秘境

 子どものときから、そしていまでも続いている私のひとり遊びがある。

 かんたんなことだ。

 ただ目をつぶればいい。

 そうすると、真っ暗で、なにも見えなくなるのではない。反対に、さまざまなものが見えてくる。

 例えば、夜、ふとんのなかに入って、眠るのではなく、目をつぶっていると、まぶたの内側に、なにか見えてくる。なぜだかよくわからないが、そのぼんやりとしたものが、次第にはっきり形をとってくる。

 最近の例では、それはなにかの機械だった。

 四角形や球形を組みあわせたようなもののかたまり――それが大きくなり、より複雑な立体物になっていく。手でさわれるような立体感があり、それが音もなく増殖していく気配。

 おもしろいのは、そのイメージが、きちんと(カメラで言えば)フォーカスが合っているのである。ぼやけているのではなく、くっきりと形がはっきりしている。

 もちろん、まぶたのなかの世界だから、青空のように明るくはないのだが、しっかりと形が見え、目をこらしていると――という表現はおかしいような気がするが、少しずつ細部が見えてくるようなのだ。

 目をつぶっているのに、イメージにピントが合ってくる。そしてこれは、目をつぶったままの状態での瞳のなかの形の変化なので、つまり映画で言えば、ワンカットの映像なのだ。イメージの変化が途切れることはない。

 いわば、まぶたのなかのフィルムの長まわしをしている状態なのだ。

 そこで一瞬、目を開き、すぐまた閉じると、そのイメージが続くのか、それともなくなって、別のイメージが現われるか――それがはっきりしない。つまり、もう一度目をつぶればカットが変わるのかどうか、自分でも答えられない。

 そして、このまぶたのなかで見た映像を、紙の上にエンピツなどで再現しようとしても出来ない。いや、出来るのかもしれないが、そうしようという気が起きない。

 ふしぎだな、と思う。

 これはたぶん、視覚と意識の問題なのだろう。まぶたのなかに、なにかを見ようという意志を持って、意識を集中させていると、見えてくるのである。

 いつも思うのだが、このようにして目をつぶって見ているイメージを録画しておいて、あとで見ることができれば、どんなにおもしろいことか――と、私は子どものときから思い続けてきた。



 以上、記してきたことは、夢のはなしではない。夢は眠っているときに見るが、これは目を閉じて、そのなかでなにかを見つめようという試み、遊びなのである。

 ただ目をつぶっているだけの状態だと、見えている世界は暗いのだが、それを明るくする方法を、小学生の頃に発見した。

 まぶたの上を、指でぎゅっと押すのである。

 すると、うす闇のようなその世界が、黄色く見えてくるように感じる。

 それを私は、チーズの谷間と思うようにした。

 チーズ色の峡谷が、まぶたのなかにひらけてくるのである。そのチーズの谷は深く、その谷を私が歩いていくとしたらどうだろうか――と空想する。

 子どものとき考えたのは、そのチーズの谷を、ウォルト・ディズニーのアニメーション映画のキャラクターたちが歩いていく姿だった。

 その場合、ミッキー・マウスやドナルド・ダックではなく、昆虫たちなのである。

 私は『ウォルト・ディズニーズ・コミックス』というコミックブックを、家の近くの世田谷・下北沢の古本屋で、一冊十円ほどで買っていた。それには、いろいろなディズニーのキャラクターが活躍するマンガが載っていたが、ミッキーやドナルド以外のマンガで、私が興味を持ったのは、昆虫たちが活躍するマンガなのだった。

 それはアメリカ映画の西部劇のような世界で、昆虫が腰にガンベルトを巻き、ピストルを抜いて撃ったりする。それが私には、とてもふしぎな印象で、例えば家の庭の草むらで、虫たちがこのマンガのようなことをしていたら――と空想してしまうのだった。

 もちろんカラーのマンガだから、虫たちはさまざまな色彩がにぎやかで楽しい。

 たぶんディズニーのコミックスだから、この昆虫世界のマンガも、短編アニメがもとになっているのでは――と思うのだが、アニメ自体は見たことがない。

 そして私は、目をつぶって、指でまぶたを押すと、闇のなかがチーズのような色になって、その谷間、その起伏のなかにディズニーのコミックスで見たマンガ化された虫たちを歩かせてみたくなるのだった……。



 目をつぶって、そのまぶたを指で強く押すのは、もちろん目には良くないと思うから、そんなに長くは押していないけれど、しかしこの方法で、私は子どもの頃に、自分のまぶたのなかにひそむ劇場を発見したのだった。

 まぶたのなかの想像の劇場、もしくは映画館、もしくは秘境は、いまでも変わらず存在するが、同じイメージがくり返されることはない。

 こうした視覚のひとり遊びは、子どもならだれでも発見するものだと思うのだが――まさか、私ひとりではないだろう。

 それにしても、目をつぶったひとみのなかの世界には、立体感と遠近が明白にある。

 例えば、『キャプテン・アメリカ』のコミックスの生みの親であるコミックブック・アーティストのジャック・カービィの作品には、宇宙魔神ギャラクタスや、惑星上に建造する奇妙で巨大な機械装置、惑星エネルギー吸収機などが描かれる。

 私は彼の描くそうしたメカニズムを、うっとりと楽しんできた。いまは亡きカービィは、やはり幻視の人だったと思う。彼は、自分のまぶたのなかに、独自の世界を持っていたのではないか。

 私は知らず知らずのうちに、自分のまぶたのなかの秘境にも、彼の作品の影響を受けてきたのかもしれない――とも思うのだ。






*第62回は8/8(金)更新予定です。 


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